
「リヴァイアサン 第2巻」 ホッブズ著,水田洋訳(岩波文庫)
ホッブズは,国家の主権を規定して国家を論じる枠組みを作ったという功績がありますが,その自由論は少し異質です。
思想の自由と生命までは奪われない自由を肯定しますが,基本的に自由の問題を国家が様々な施策をする自由と考えていきます。
そして,国に対する行政訴訟すら否定するようにも思えます。戦前の日本でも,ホッブズのリヴァイアサンが翻訳されていたことから分かるように,統治する側からの理論の形成には大分引き合いに出されたようです(それは必ずしもホッブズの望むところではなかったでしょうが)。
戦前の国家無答責の法理(いわゆる国賠を認めない慣習,戦前には法律がなかった)なんかに影響を与えたことが窺えますね。
しかし,ホッブズの場合,前述のように思想の自由を認め(ただし,外形的な表現は否定),捕虜になることも生命の保全から許される,代わりがいれば兵役の拒否(他人の殺害)も可能というように,ニュアンスは結構違います。
国が財産を管理していくことに対しては批判的です。
「しかし,人間の本性は,現実のとおりなので,コモン−ウェルスのために,公共地あるいはなにか一定の収入をさだめることは,むだであり,そしてそれは,主権者権力が君主または合議体の手にはいるやいなや,つねに,統治の解体とまったくの自然および戦争の状態とへの,傾向をもつのである。君主も合議体も,貨幣についてはあまりに無頓着であるか,あるいは,公共財産を長期または高価な戦争につかう点で,あまりに冒険的である。」(141頁)
いろんな事件をみるとなるほどと思いますね。しかし,財政的な裏付けはどうするんだろう。
命令と忠告の区別について述べられていましたが,当たり前だけれどなるほどと思いました。忠告は,受ける者の利益の観点から,命令は,与える側の利益の観点からなされる。そう,忠告する時は,相手の心持ちにしっかり配慮してあげましょうね。
国家の意思形成のあり方についても興味深い指摘がありました。君主制というと,なんだか好き放題っていうイメージがありますが,そんな無茶苦茶なことでは国は持ちません。そこで,忠告者の存在が重要になってきます。で,忠告者からどうやって忠告を受けるのがベストか。ホッブズは合議体形式よりは,個別方式の方が,各人の情念に左右されることが少ないと指摘します。
「おおくの目はひとつの目よりおおくをみるということは事実であるとしても,しかしそれは,おおくの忠告者について考えられるべきことではなく,最後の決定がひとりによるばあいだけである」「的をはずすまいと意欲する人びとは,みまわすには二つの目によるものの,ひとつの目でしかけっしてねらわないのである。」(161頁)
(つづく)

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