なるほど。数の論理で来ましたか。自民党のバカ勝ちは,こういう形で数の論理による荒技をするために役立ちましたね。
で,注目すべきはどうして「教育基本法」だけが数の論理で押し切らないといけないのか。読めば分かるように,何を言っているんだかよく分からない法案になぜそこまでこだわるのか。ここに一つのポイントがある。
安倍氏は,法案が衆議院を通過して,「よかった」と言う。ふーん。そんなもんなんですかね。私ならば彼の立場でも,通過して「よかった」とはとても言えない。教育を立て直すなんていう崇高な目的を掲げるなら,「よかった」ではなく,じゃあどうやっていくのかこそが焦点じゃないだろうか。
で,ここから明らかなのは,これもやはり「改革のための改革」なのだということ。戦後社会に一撃を加えてやったわい,的な満足なんでしょうね。参議院で否決されることを望みつつも,我々は意気消沈ばかりもしていられない。
人によっては,国外脱出だとか世の中終わりだとか,がっかりしている人もいるけれど,ぼくはそれが法律になったら,やはり文言にしたがって,また強制はしないという答弁にしたがって,バカ正直に向き合って監視していくべきだと思う。
今回の教育基本法改正案の一番の問題は,
「教育改革のゆくえ」でも論じたように,さらなる格差社会化への不安だ。伝統や愛国心うんぬんは,それこそ「家庭教育」によって,学校で歪んだ人格にされないように自主的に教育していく必要がある。なあに,人の心までは国家は踏み込めない。考えても見よう,ぼくらだって,憲法成立の時から常に右傾化する動きの中で教育を受けてきたじゃないか。学校で教わることなんて限られているさ。
ところが,格差社会の問題は深刻だ。法案では,法律による介入を前提にした構成になっている。大体が,下位法について多くの人の関心は続かない。だから,いつのまにやら,え!こんなになってしまったの,という事態が生じてしまう。
これが最も危険な事態だ。だから,仮に教育基本法の改正が実現したとしても,「各論」部分に目を光らせることを忘れないようにしよう。
しかし,法律が制定されるとすれば,与党はいつかこの日を苦々しく思い出す日が来るだろう。結局,「愛国心」をこういう形で涵養しようということは結果として,ほぼ半数以上の人たちにとって,「愛国心」なるものが胡散臭いものだと思われることに繋がるし,「家庭の責任」の名の下での家庭の縛り付けは,各家庭の自主的な教育への関与の度合いを下げるだろう。現在でもほとんど裁量の余地がなく多忙な教師は,もうボランティア的に働くのはよそうと考えるであろうし,優秀な人材でも教師という職は止めておこうと考える人が多く出てくるだろう。秩序維持の標目は,生徒にさらに多くのストレスを与えるだろう。
で,これが国家百年の計を決めるに値する議論なのか。この破壊時代の後始末は,かなり大変そうだ。

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