「民主主義 古代と現代」 M・I・フィンリー著,柴田平三郎訳(講談社学術文庫)。
原著は,1973年出版。著者は,古代ギリシャ・ローマ史家。アテナイの民主制と現代の民主制を比較しながら民主制を考えていく。
1973年に書かれたとはいえ,本書で指摘する「民主主義が政治組織の最良の形態であるという信仰」が今以上に高まっている時代はないだろうと思います。
目を日本に向けてみても,例えば都知事選で石原が落選することを望んでいた人たちや,自民党が衆議院選であんなに大勝すると思っていなかった人たちは,行き場のない憤りや諦めを感じたことでしょう。
ほれ見ろ,これが民意だ,お前ら黙れ。しかし,そうなんだろうか。他方で,これだけ民主主義国であることが強調され,昔に戻ることはありえないなんていう根拠のない楽観論が広がる中で,未曾有の勢いで政治的無関心層が増えていっている。
政治的無関心については,本書に述べられているようなエリート理論(「民主主義が機能し存続できるのは,職業政治家と官僚の事実上の寡頭政治の下でのみである」)が声高に唱えられている訳ではないけれど,実態としては政治に無関心な一見純朴な人たちの方が大過なく過ごせるといったある種の信仰も存在している。
また,多くの人の政治参加を促すという方向に向かっていないことも昨今の状況からも明らかだ。例えば,ビラ配り事件での規制や,そもそも戸別訪問を規制する法律,基本法として重要な憲法の改正を決める場合にも,最低投票率規定を設けないし,有権者の一定割合という縛りを設けない(つまり有効投票を基準にすれば足りるという考え)。
どうしてこうなってしまったんだろう。例えば,アテナイなんかはどんなだったんだろう。本書の原点を共有するとすればこういうことなんでしょうね。
フィンリーは,本書でアテナイに戻れとは主張しません。彼は,
「大衆の無関心と政治的無知は今日の基本的事実」(60頁)とまで言い切ります。そういう意味では本書を読んでも答えは出ませんし,後半なんかは彼自身の迷いのようなものすら垣間見えます。
とはいえ,いろいろと考えてみる素材としては面白いです。
アテナイの民主制は,小規模な国家において,直接民主制を基本として,営まれていたことが現代の民主制との違いになります。当然官僚組織もありません。
アテナイの民主制といえば,衆愚政治とかデマゴーグとかいった批判を受けることがありますが,フィンリーはこの批判に対して反論していきます。
いわく,デマゴーグは直接民主制の不可欠の存在であって,彼らは決して無責任な存在ではなかったと。
当時の民主制が今とは比べようもない緊張感に充ちていて,政治的無関心なんていう余地はなかったというのは事実でしょうね。そもそも投票の方法が違います。集団での投票というか意思表示ですものね。
アテナイの投票は,
「他の投票者から物理的に隔絶された状態のなかで投票用紙に印をつけるという非人格的な行為とは本質的に無関係な状況にある」(91頁)なんていう記載をみると,確かにねーと思います。
「甚だしい不公平,重大な利害の対立,意見の当然の相違が深刻に存在した。そうした条件下では,対立は単に不可避であるばかりでなく,民主政治にとってはよいことであった。なぜなら民主制が寡頭制へと堕落するのを防ぐためには,単に同意だけがあればよいというものではなく,同意とともに対立があることが必要だからである。」(109頁)
この部分が本書の核心部分になるだろうと思います。対立はあってしかるべきであって,この対立があることこそが民主制の根幹でもある訳です。
ところがイデオロギーの時代が到来してからは社会科学や政治学が価値判断から自由であるべきだという主張が生まれてきます。これに対しては,
「社会科学や政治学は「価値判断から自由」であるべきだとする主張は実際,「価値へのコミットメントの最も極端な例」をもたらすことになる。」(120頁)という批判があてはまるでしょう。
「無関心とは,民主主義にとって健全で必要な条件であるどころか,さまざまな利益団体が意思決定者へ接近する機会に不均衡があることに対して示す退行的反応である,ということである。」(149頁)という指摘も重要です。つまり,蚊帳の外に置かれているということが引き起こす反応である訳です。
では,生き生きとした民主制にするにはどうすべきか。これはやはり政治参加を積極的に促して,対立が存在することこそが健全なことであるという認識を共有し,常に一定の政治的立場に身を置くように(これはイデオロギーを持てということとは異なる。どちらかというと自分の意見を持つということ)していくということでしょうね。
このためにできることは実はたくさんあるし,他方でこのような動きを阻止する動きもたくさんあるというのが現状です。例えば,物事を決めたりする場合の審議員なんかを有識者だけで固める場合なんかがそれですね。これをやめて,無作為抽出の市民を参加させるようにして,一般の人の参加を促していくといったことが重要になるでしょう。
民主主義,民主主義といいながら,肝心なところでは国民にはその能力がないと断定して知っている者たちだけで決めるっちゅうのは,やっぱり看板に偽りありですよね。
本書,なかなか骨の折れる一冊でした。

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