「夜よ、こんにちは」 マルコ・ベロッキオ監督,マヤ・サンサ,ルイジ・ロ・カーショ出演(イタリア,2003)。
1978年にイタリアで起きた,極左武装集団「赤い旅団」による,キリスト教民主党の党首アルド・モロ誘拐事件を描く映画。
割と地味に,誘拐事件の実行犯である「赤い旅団」の一員である女性キアラの視点から誘拐事件の結末までを描いていきます。
派手なアクションシーンを折り込むことなく,基本的にはモロを監禁している部屋を中心に,その時の時間の経過まで折り込もうとするかのように,ゆっくりと描いていきます。
映画の中で,レジスタンスと彼ら「赤い旅団」を対比する場面があります。一方は讃えられる存在であり,他方はより過激になり,忌み嫌われる存在。
日本でいえば,赤軍派のテロ事件を思わせるような話ですね。
これを,2003年にベロッキオ監督が撮った。もちろん,9.11の後にです。その時間軸は我々に何を考えさせてくれるのでしょうか。
映画の中では,「赤い旅団」が戦う相手(敵)の醜悪さ,彼らが醜悪であると考えたものについても折り込まれることはありません。
そういう意味でいえば,これは一方からの見方であるともいえるでしょう。しかし,それを敢えて行った。しかも,モロについては,命乞いをするでもなく,落ち着いた家族を愛する男として描いた。
それでも,その視点は,あくまで旅団のメンバーであるキアラの視点から描いている
。ここに何ともいえない作用が働く。
テロが悪である,とか,極左暴力運動が忌むべきことであったとかいうことは,わざわざ映画にすべきことではない。映画もモロについて魅力的に描写するが,他方で旅団のメンバーについても醜悪に描くことはしない。ここでは,大義のための行動が次第に変化していく一つの動きが表現されている。そして,それは9.11後,より悲劇的な方向に動いている。
非常につまらない月並みな事だけれど,やはり人を殺しちゃいけない。目的のためだろうと,何だろうと,それは正当化できないし,正当化できてはいけないのだ。
これを当事者の視点から見つめることができるか,こういうことを随分と意識させられた。
そんなの当然じゃないかと問う人たちには,こう聞きたい。例えば,米軍がやってきて俺らの街は破壊された,俺らの文化は死に瀕している。俺らの国を守らなければならない,彼らに思い知らせなくてはならない。たとえば,こういう確信によって行動し始めたらどうだろう。当然ぼくは,これを日本に置き換えて考える。そういう事態になっても,チキンのように武器を手に取らないだろう。9条うんぬんではなく,これはぼくの信条だから。しかし,世の中の勇ましい人たちはどうなんだろう。
これが問いの一つ目。
二つ目の場面は,こうだ。イラクで人質事件が起きた。彼らは人質解放のための交渉をしてきた。これに応じるべきか,応じずに人質を殺させるべきか。
これも日本中の良心的な人々を悩ませた問題だ。そんなことを言うテロリストがおかしい,とか,テロリストと交渉してはだめだ,とかいろんなことが言われた。
しかし,人を殺しちゃいけないということからいうならば,むざむざと人質を殺させるような行動を取るのも,やはり正当化できないんじゃないか。
モロ事件の遺族は,国葬に遺体を提供しなかった。そこにも問いがある。
こういう二つの問いかけが,意識的じゃなく穏やかに浮かび上がってくる。要は,理論じゃなく感情なんじゃないかと。
地味ながら,訴えかけるものがなかなか濃い映画。

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