「政治学」 アリストテレス著,牛田徳子訳(京都大学学術出版会西洋古典叢書)。
2回目です。さて,
「商いの術は財を作る術ではあるが,そのまったき意味においてでなく,ただ財の交換をつうじて財を作る術である。」(32頁)なんていう言葉を読むと,財の交換をもって天才的なことであるかのように持ち上げる風潮に違和感を感じる理由も分かろうというものです。
しかし,当面続くんでしょうね,この風潮。
で,
「高利貸しの術は憎悪されるのになににもまして当然な理由がある。その術は,貨幣がそもそもなんのために案出されたかという目的とは裏腹に,貨幣そのものから財を得ているからである。」(36頁)と紀元前から指弾される消費者金融の方は,法改正によってあるべき場所に押し戻された格好です。
本論に戻りましょう。アリストテレスはプラトンに対する批判者となりえ,また学問の潮流の一つの大きな柱となった訳ですが,今読んでいる限りでは方法論の違いはあれ,それほど両者をカテゴリカルに分類していく意味はないような気がします。
しかし,アリストテレスの分析が手堅いというか,穏当というか,そういう印象を与えるのは事実です。
国家のあり方に対する彼の見解も優れたものがあります。
「他の見地からしても,明らかに,国家をあまりにも一つにしようと求めるのはよいことではない。(中略)いやしくもいっそう自足的であることがのぞましいのであるなら,いっそう一つであることよりも,いっそう一つでないことのほうがのぞましいことになる。」(52頁)。
熱病のように湧き出た愛国心教育論や日本の誇りを過度に強調する一派の国家観は,まさにアリストテレスが批判する国家観でもある訳です。
で,アリストテレスは,これをどこから導くかというと,そもそも国家とは何か?という問いから出発して導きます。
難しそうな気がしますが,至って簡単なものです。自然の流れを見よ!ですね。
つまり,一人では生活が困難であることから,我々は複数のグループを作っていく訳です。それが,家族になり,村になり,国家になる。それは一人,ないしは少数の者だけでは成し遂げられない部分がある(これが自足的なものを目指すということになります。)からこそ,人の集まりを作っていく訳です。
これを単一な嗜好のものにしようという方向性は,そもそもが一種の自己矛盾になる訳です。つまり,スタートラインからしてばらばらな者が必要性のもとで一緒になったというのが国家の構造なのに,これを(つまり,本質的なばらばら)を無視して一つにさせようというのですから,そこには共同体の破壊の芽を生じさせることになる訳です。
これからは,こういうスタンスで批判した方が,単に少数者の思想信条の自由を害するとか,人権を侵害するとかいう言い方で批判するよりも新鮮かもしれません(本当は,そういう流れの結果として人権につながるのですが,なかなかそこまで根付きませんね)。
(つづく)

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