今年は,芥川で始まる1年だな。実りが多そうだ。
ぱらぱらと読み,ぱらぱらと感想を書く。うーん,いいな,こういうの。
いずれも芥川龍之介。
「あばばばば」
まずは,タイトルがインパクトありますね。読み始めても一体なぜ「あばばばば」なのかはなかなか分からないのですが,最後になってようやく分かります。端的に言えば,子どもをあやす声なのですね。
主人公を保吉にする作品を芥川はいくつか残しているようですね。そんな一作。
たばこを買いに行っていた店に,ある日店主に代わって女がいた。そんな日常を切り取ったような作品で,描写も手堅い。母は強しという感じなんだろうけれど,世の女性からはひんしゅくを買いそうですね。
「或阿呆の一生」
芥川の遺稿の一つ。なので,否が応でも彼の死,つまり自殺のことを考えざるを得なくなくなる。
しかし,まず思ったのはその詩情に溢れること。51の短い章立ては,あるいは51編の詩を意識したのかもしれない。また,ぼくのような現代人からするとその文学的バックグラウンドを知りたい意欲にも駆られる。名は知っているものの読んだことのない作家がいかに多いことか。文学の時代は,やはり多くの文学を読んだ時代でもあった。
現代の我々に,どこまで彼らに迫れるだろうか?
さて,自殺論に移るけれど,日本文学の歴史は自殺の歴史,いや世界文学,芸術はそういう歴史を辿ってきたと表現しても一つの見方としては十分成り立つ。
ぼくらの時代でも文学青年になろうと志せば,行動の有無は別としてこの問題を考えざるを得ない。自殺防止が声高に叫ばれても,それでも自殺という選択肢は残るだろうなーと思わない方がヤボだろう。
自殺が完全な自由意志で敢行されるなら,もったいないとは思えども一つの選択肢としてはやはりありうることだろうと思うし,ぼくは自殺自体をそれほど神格化もしないし,かといって卑下する気持ちもない。
人は必ず死ぬ訳だから,死のあり方も様々だろう。
そういうことを前提にしても,自分としては「死」にそれほど魅力を感じない。もちろん,ぼくらの時代には既に多くの自死の歴史に溢れているから,そこに芸術的な色合いを更に加えようと思っても,そういう意味合いでは無理だろう。
自分の場合には,さらに追いつくのに精一杯で超越した心境には到底なりえないというのが一番だろうと思う。読めども読めども追いつけない凡人の心境からするなら,美学のように死ぬにはあまりにも悔いが多い。そういう意味からすると芥川の死は,やはり一つの作品のような印象を受けてしまう。
しかし,芥川を基点にして,自殺というものを考えていくと,それはそれで広がりを持っていますね。やはり,自殺に関心を有し,自殺を基点として文学を読みあさった芥川ならではですね。
「或敵打の話」
文字通り,仇討ちの話。仇を求めて捜し求める様なんか読むと,仇討ちもなかなか大変ですね。芥川については研究したことは全くないから素人感覚なんだけれど,彼の江戸に対するスタンスというものがよく出ている気がする。
追われている兵衛が自分が仇討ちをされるきっかけとなった,今風にいえば被害者,これをしっかりと弔っているらしいという情報が入り,そこを狙えばようやっと仇討ちができるな,と勢いづくシーンでは,
「が、彼等の菩提(ぼだい)を弔(とむら)っている兵衛の心を酌(く)む事なぞは、二人とも全然忘却していた。」と皮肉るし,その結末も皮肉が効いたものだ。
特に,仇討ちのために相手の健康を願うシーンなどは喜劇といってもいい味わいだ。
うーん,いいですね,携帯読書。

0