
「弁論術」アリストテレス著,戸塚七郎訳(岩波文庫)。
さて,そろそろペースアップします。
まずは,青年についてのアリストテレスの描写(224頁−226頁)から
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「彼らは性格的に欲望にはしり易く,欲することは何でも実行に移す傾向がある。また彼らは,身体に関わる欲望の中でも特に性的な欲望を追い求めがちで,自分でこれを抑制する力がない。また,欲望に対しても気移りし易いし,飽き易く,激しく求めるかと思えば,さっと止んでしまう。」
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「彼らはまだ欠乏を経験したことがないから,財産への愛着が非常に少ない」
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「彼らは,世の醜悪なところをまだ見ていないため,気立ては悪くなく,むしろお人好しであるし,まだ色々と欺かれたことがないので,人を信じ易い」
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「彼らは,ほとんどの場合,希望によって生きている。」
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「彼らは,利益になることよりも立派な行為に進むほうを選ぶ。」
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「物ごとの程度と熱心さが過ぎるため,何ごとにも失敗する」
うーん。なかなかやるものですね。そりゃ違うだろうとはなかなか言えないですね。
ちなみに,アリストテレスは老年についても触れていますが,傲慢だとか,横柄だとか言い切っています。こちらはどうなんでしょうね。将来考えてみたいものですね。
さて,寓話の例として面白いなと思ったのは,アイソポスが演説で使った寓話です。
狐に沢山の家ダニがついていたため,ハリネズミがとってあげようかと申し出ると狐は断った。いわく,「このダニどもは私の血でもう腹一杯になっており,これ以上血を吸うことはほとんどあるまい,だが,もしこいつらを取り除いたら,腹を空かしている別のダニどもがやってきて,私から残りの血を吸いつくすことだろうから」(249頁)
これは,或る民衆指導者が死罪に問われている時に弁護するために出した例だそうです。具体的な弁護としてはどうかとは思いますが,この寓話は違った場面でも活用できそうですね。もちろん山田洋行のような事例で,弁護するために使えといっているのではないので誤解なきよう。
さて,メディアの力なんかを見るにつけても,あんなアホがなぜ人気があるんだろうと思うことが多いと思いますが,これにはいくつか原因があります。
もちろん,我らが師アリストテレス・ザ・マスターも的確な指摘をとうの昔からしています。
「説得推論においては,弁証術の場合のように,遠くから多くの議論を重ねて結論を導くということであってはならないし,議論の段階をすべて押えながら導くというものであってもならないのである。」「じつにこのことが,大衆の前では,教養豊かな弁論家よりも教養に欠ける弁論家のほうが説得力を持つ理由となっている。」(259頁)
つまり,大衆がアホだとか言って自己満足している場合ではなく,それに見合った弁論術をマスターしていかなければならない訳です(もちろん,こういうあり方がよいかどうかという問題は別として。改善策としては意思決定や情報提供のあり方として大型メディアのやるようなやり方によらないという方法が考えられるでしょうか。)。
やばい,あまりペースアップにならなかった。次回には終わるぞ。
(つづく)

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