「名もない顔もない司法」 ダニエル・H・フット著,溜箭将之訳(NTT出版)。
さて,続けます。
下級裁判所裁判官指名諮問委員会ですが,これは新任の判事補,10年毎の再任の際に審査を行う委員会で法曹三者及び学識経験者で構成されています。委員の名簿は,
こちらを参照。
従前,密室の中で任官拒否や再任拒否が行われていたのですが,限度付きとはいえ一定程度の客観性を維持する仕組みになっています。
しかし,具体的にどのような審査が行われているのかについてはまだまだ不透明です。また,委員会でどの程度の資料を有しているのか,結局は最高裁事務総局や研修所の意見に従っているだけではないのかなどの批判的視点も重要だろうと思います。
著者は,
「事務総局にとっては,任官拒否を推薦する裁量の幅が以前よりずっと広がったことになる。」(227頁)と指摘します。
驚いたのは,アメリカでも陪審の評議を受ける事件は少ないこと。刑事事件でも,重大犯罪の65%は,答弁取引によって解決されている(237頁)というのは驚きですね。
結局は,費用対効果という感じになるんでしょうね。
日本の裁判員制度に対する指摘も重要です。
米の陪審制では,日本の裁判員制度とは異なって,
「裁判が終われば,陪審員は自分の経験を人に自由に話してよいとされる 。」(247頁)というのも驚きですね。評議の秘密は絶対ではない訳です。このような仕組みによるなら,陪審制が有効に機能しているのか,問題があるとすればどの部分か,関係者はどういうことに配慮したらよいか,という点について事後に検討を加えることができますね。
メディアの偏向報道による陪審員(裁判員)への影響を防ぐ手法についての指摘も興味深いですね。米では報道の自由を制約することには抵抗が強いため,
「裁判に重大な予断を生じさせる可能性が十分にあると知っているかまたは合理的に知ることができる場合には,そのような発言を裁判外でしてはならない」(256頁)という形で,法曹関係者への倫理的な縛りとして規定しています。
日本でも,警察や検察が捜査段階で一方的な情報を流す現状を見るなら,こういう形での規制をかけていくことが重要な気がします。
また,犯罪被害者の裁判手続きへの関与が叫ばれ,法改正に明け暮れる昨今ですが,公正な裁判の実現という見地から,特に陪審(裁判員制度でも同じ)による事実の認定段階における被害者の関与を基本的に認めない米国の扱いが紹介されています。
被害者保護は重要ですが,その大前提として事実の認定自体が誤っていれば,そもそも被害感情をぶつける先が誤っているということになりかねません。冷静に事実認定ができる環境を作るという視点は今後検討していく必要があると思います。
さらに,量刑判断と事実認定の双方を行うとされる日本の裁判員制度(ちなみに米国では量刑については関与しないか,事実認定と量刑は明確に分離される)の危険性についても述べています。
量刑の資料としては,前科などの情報が重要になりますが,事実認定段階でそのような事情が出てくれば,犯罪自体をその人間が行ったのかどうかという判断に,例えば同じような犯罪をしたのだからやったに違いないだろうとか,違う犯罪であっても犯罪を犯すような人間だからこの人の話は信用できないな,などといった予断を生じさせることになります。
この点も運用の改善などを考える必要が高い点だといえるでしょう。
本書は,日本の司法のあり方を考える上で有益な一冊でした。

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