
「君主の統治について」 トマス・アクィナス著,柴田平三郎訳(岩波文庫)。
さて,今回は最終回です。
トマス・アクィナスは,キリスト教の人ですので,最後は宗教に行き着きます。宗教の枠組というのはある種自己完結的ですので,実際にそのとおりに(それこそ神のように)実現できるのであれば,これ以上すばらしいことはないだろうとは思います。
ただ,現実はなかなかそうはならないというところに,政治学や法学の意味があるのでしょう。
今回は,彼の高貴な文章に酔いましょう。
名声への
「欲望は精神の自由を破壊するものであり,精神の自由のためにこそ高い精神をもつ人びとはあらゆる努力を払わねばならない。」(50頁)
名声は評価であり,自分の行いが正しいことを社会が認めてくれるものですから,一般の人にとっては公的な仕事をする以上は,こちらを求めるでしょう。しかし,名声などというものは結局は外からの評価な訳で,この名声への欲望は,指摘のとおり精神の自由を奪ってしまう場合があります。
自分の中での順位付けということでは,しっかりと整理しておくとよいでしょう。
「人というものは窮する者を救い,対立する人びとに平和を与え,弱者を強者の圧迫から解放するならば,」(63頁)
人の生きる目的の一つは,上記の引用に尽きている気がします。いろいろと小難しく理屈を付けて,自分の攻撃の理由を説明したりするケースが見られますが,何と言っても,救う,平和をもたらす,圧迫からの解放,これらに勝る美徳はないでしょう。偽善だなどという批判は,質の低い批判ですので気にする必要はないように思います。
聖グレゴリウスの言葉の引用も力強いエールになります。
「心の嵐でないならば,海上の嵐などいったい何だというのか。」(64頁)
「し,師匠,その通りであります。」(船上にて,へろへろになりながら・・)
さて,最近の学力偏重についても一言必要でしょう。教育に向けた言葉ではありませんが,学校の先生には是非,点数ではない部分についても見てもらいたいと思います。
「この治めるということは治められるものをその固有の目的へと適正に導くことだということを考慮に入れておかねばならない。」(84頁)
教育で言うと,決まった形に押し込むのではなく,その子の発達の可能性を見抜き,その方向に適正に導いていくこと,となるでしょうか。
しかし,いろんな意味で,熱い時代だったと思います。
(おわり)

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