「国家(下)」
プラトン著(藤沢令夫訳,岩波文庫)。
さて,次は8巻。国制とその国制の性質を人間に喩えた例が出てくる興味深い巻です。とりあげられるのは,プラトンが理想とする哲人国家以外の国家,すなわち,クレタ・スパルタ風の国制,寡頭制,民主制,僣主独裁制とそれぞれのタイプの人間です。
クレタ・スパルタは,名誉を重んじる国(人),寡頭制は,財産に執着する国(人),民主制はご承知のとおりで,僣主独裁制は,独裁制と考えてよいです。それぞれのタイプを人間にあてはめて成育過程を分析する部分はなかなか面白いです。
日本は,上記の例でいえば,やや寡頭制的な民主制といった形でしょうか。
寡頭制について,
「ある国で君が乞食を見かけるとしたら,その国の内にはどこか同じ場所のあたりに,盗人やスリや神殿荒しや,すべてこのような悪業の専門職人たちが隠れていることは明らかだということになる」(192頁)と指摘しています。
貧困の意味をよく把握していると思います。犯罪の増加=治安の強化必要と考えがちですが,背後には経済問題が控えているケースが多い訳です。
お!なんか安全保障の問題に似ていますね。表面的な事態を受けて対症療法的に警官を増やすとかしても,必ずしも抜本的な解決にはならず,社会保障制度等の手当(経済政策)が必要になる。国防も同じで,軍備を増強するだけでは軍拡の動きが加速するだけで抜本的な解決にはつながらず,結局外交によって経済政策をうまく駆使して解決に持っていく必要がある。
さて,最近の若者は金遣いが荒いとか拝金主義だといって道徳教育の強化を唱える見解や消費者金融から借りる方が悪いという意見には,次の言葉を。
「一国において,富を尊重しながら同時に節制の徳を国民のうちにじゅうぶんに保つというのは,不可能なことであって,必ずどちらか一方がおろそかにならざるをえない」(199頁)。つまり,何らかの手直しをしたいというなら,その原因をしっかりと把握すること,つまり我々の足下を見つめ直す必要がある訳です。ま,当然のことですが。これに関連して,本書では,金銭貸借について貸し手責任を重視すべきだと言っています。
「もし多くの任意の貸借契約は,貸すほうの者自身の危険負担において契約するように命じるとしたら,その国では,恥しらずな仕方で金儲けをすることがもっと少なくなるだろうし,いまやわれわれが語っていたような禍いが国のなかに生じることも,もっと減ることだろう」(201頁)。紀元前の言葉とは思えませんね。
さて,民主制。本質について見事に看破しています。いわく,真実の言論(理)だけは決して受け入れない,と。これは裏返すと,価値相対主義でもある訳です。先日取り上げたイスラム風刺画問題もありましたが,実はマホメットやキリストが生まれる前から,民主制が絶対的価値を受け入れない(批判の対象とせざるをえない)ということを指摘していた訳です。
民主制の崩壊過程については,過剰な自由をいいます。
「過度の自由は,個人においても国家においても,ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はない」(222頁)。
このことは何となく分かるとは思いますが,これは実はじっくり考えなくてはいけない部分でもあります。よく,教育基本法改正や憲法改正が唱えられる時に個人主義が進みすぎたなどという批判がされますが,実はこのような批判こそが,過度の自由の行使でもあるという皮肉に気づかれるでしょうか。
これは日本に特殊な現象だろうと思います。日本では左翼叩きが横行していますが,批判されるほど左翼が実権を握った歴史は実はあまりありません(野党政党にしたって,単独で政権を獲得したことは基本的にない訳です)。
実は日本における自由(個人主義)は,それ以外の部分で進行していっている訳です。これはたとえば労働組合の崩壊(労働者の団結権を行使しないという自由),政治的活動の崩壊(たとえば,政治的に関心をもってしかるべきの学生が政治に関心を持たない自由),突出して金を儲けることに対する恥じらい,つつましさの崩壊(他人を考えずにガンガン儲ける自由,そういえば地上げなんかもありましたね),政治過程でいえば自民党が勝っていれば安泰なんだという信仰(政治的関心を持たない自由,本来皆で議論しなければならない事柄について議論しなくてもいい自由。政治的=アカ,左翼みたいな風潮で思考をしないことが奨励すらされましたね),教育に対する統制(これも自分たちの問題である教育について,文部省任せにしてしまう自由,教師についても指導要領にだけ従っていればいいという自由)なんかを想定すれば分かりやすいですね(いずれも,政府の規制によって,人を思考のない状態に追いこんで行く訳です。)。
そして,あげくの果てには,政府自身も憲法を守らずに行動する自由が与えられてしまい(イラク派遣等を見れば明らか)。なんじゃこりゃ?という状態な訳です。
裁判所に訴えても,難しい問題は持ってこないで頂戴といわんばかりのやる気のない判決。結局,抵抗は,バカバカしいという風潮すら生み出して,人のことよりも自分のことという方向に誘導している訳です。
これが彼らの主張する「個人主義」の生成過程な訳です。
では,これに対する対処として,憲法改正が有効なんだろうか。答えは見えていますよね。それは原因を見間違えていると。そして,民主制の基本構造にすら手をつける自由が横行する時に,民主制は終わり,ついに独裁制が登場する訳です。

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