君が代強制に対する東京地裁の判決についてのぼくの評価は予想がつくだろうと思うけれど,今回の問題を巡る人々の反応を見て,基本的に理想とする社会が違うのだということに気付きました。まず,その前に,君が代を強制したとしても戦前のようにはならないという反発に対しては,
「議論は深まるか」というタイトルで以前に書いたことがあるので,参照してもらえればと思います。
で,今回判決に対し批判的な対応をしている人たちが,国旗・国歌を国民統合のシンボルと考えているということが分かった。これに例の自虐史観的なスパイスをふりかけるとそれらしい批判が出来上がる。
前に書いた,この世はバラ色なんだーみたいな考え方は,とても恐ろしくてついていけないけど(これは,政府がやることはきっと正しいんだよーという反応のことね),加えてみんな一緒じゃないといけないんだーという感覚が根底にあるんですね。
まあ,秩序とか調和だけを重視するとそういう方向に行くんでしょうね。これはやっぱり自分が多数派にいるんだ,という自覚がなせるものですね。
ぼくは学生時代から自分というものが分からなかったし,多数派にいるという意識自体がなんか羊的で,個性もなくて嫌だなーという意識しかなかった。
幸いなことに,高校が自由な雰囲気にあふれていたので,田舎の抑圧的な雰囲気のあった中学から都会の進んだ雰囲気の高校に身を置いた自分としては,戦後の解放期のような空気を味わうことができて自由ということの意味を知りました。で,何が新鮮だったか。それは異論をぶつけ合うことができるという雰囲気でした(よく,反対派の人たちは自由を好き勝手にする自由だと勝手に規定して,日本を悪くしたと批判しますが,これはそもそも自由というものの根本の部分を理解していません)。
調和を害する異論は,ともすれば眉間に皺を寄せたくなりますが,そういう険悪な暴力的な雰囲気がなかったわけです。
異論が出てくることを嫌うというのは,やはり歴史における異論の意味を分かっていないからなんでしょうね。議論が百出して初めて調和が成立する。そもそも一つの音しかないのであれば,調和なんていらない訳です。
で,こういうのって,家庭でもあるんですよね。異論を好む家庭と嫌う家庭。後者だからといって真っ暗という訳ではないんだけれど,異論を受け入れた方が家庭としてもうまくいきます。これは誰でも納得できるのではないかなー。
そういう観点から,ぼくは今でも,いわゆる「難しい人」が好きです。そういう様々な人がいるカオスのような状態から,了解できる共通項を抽出していく。はっきりいってこういう作業の方がやっていて楽しいです。しかめっ面して,難しい奴を消そうと考えるというのは,どう考えても社会的とはいえませんよね。

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