この育児カテゴリーも随分書かないでいたので,ついに育児放棄をしたのかと思われそうですが,そんなことはありません。
8か月に入り,育児は日常の域に入ったというのが真実です。
さて,子どもがいると子どもがいる妻の友達との交流が必然的に増えてきて,ほかの子どもを見る機会が増えてきました。
ぼくは兄弟の多い環境で育ったこともあって,子どもは好きです。とはいえ,子ども好きにもいろんなタイプがあると思います。
ぼくの場合は,純真さに惹かれるとかいうのではなく,そもそも何を考えているのかに興味があるというある意味学術的な関心です。
子ども=未熟と考えがちですが,確かに未だ成熟していない部分があるのは事実ですが,物事を認知し学習していく存在という意味では,人間の神秘さが体現されているような気がします。
こういう感覚は,相手に対する畏敬の気持ちを引き起こしてくれます。孔子ではないですが,年齢がどうであるかなんてこととは無関係に,目の前の存在は,自分より偉大であったり,あるいは恐ろしい存在であることもある訳なのです。
また未熟と括られがちな子どもですが,そこには本能的な個性が宿っているのも看取されるわけです。
で,畏敬の気持ちを持って接していると,なぜか子どもも敵意をもっていないことが分かるのか,笑って接してくれるのがうれしいところ。
回りくどいですが,要は妻の友達の子供にとっても,ちょうどいいベビーシッターになっているということです。
2歳くらいの子どもは,本当に凄いエネルギー。彼ら(彼女ら)のエネルギーを正面から受け止めると,やっぱりもの凄く疲れるのですが,接したことによって得られる教訓も凄いものがあります。
そして,彼らと遊ぶ(正確には一緒に過ごさせてもらう)のも,決まり切った方法で迫ってはいけないということに思い至る訳です。
子どもの個性をつかみ,それに相応しい接し方を編み出す。これは自然科学のいつもの方法,よく観察し試してみるというアプローチです。
ということで,奇声を上げて子どもに成りきっているように傍からは見えるのですが,自分にとっては貴重な実践の場でもあります。

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