昨年のノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクの「雪」を読んでいる。感想は追って書くとして,久々に物を書くことを考えさせられた。
本を読む人なら,小説を書いたり,詩を書いたりというのは一種の憧れであり,自分の人生の中の恥ずかしい記憶としつつもコアな部分に大事にその経験を隠し持ったりしているはずだ。
ぼくの場合は,中学校の時にひどい詩を作り,高校では同じくらいひどい小説を書き,やはり人生経験がないと抽象に流れるなーと見限ったものだった。
とはいえ,例えば感傷的になったときや,この光景,感覚が自分の中では貴重であって,これを何とか保存しておきたいと考えた場合には,文字にする必要が出てくる。
そういう時には,つたない経験であっても,「それ」をすることが億劫でない程度に「それ」にたしなんでおくことは必要だし,そういう無茶をした自分に感謝したりするようなこともある。
そう,表現ということに関して言えば,その必要性は自分の中から湧いてくるのであって,他者の評価はその必要性の前では関係がない。
しかし,各種の賞に応募するのでもなく,日常的に小説や詩を書く人間というのはどの程度いるんだろう。
最近思うのは,例えば小説を書こうとか,詩を書こうとかいう心持ち自体が物事を見る目を変えてくれるということだ。
ぼくらはいわば記号によって,物事を認識し,その了解のもとで社会生活を送っている。物事はシンプルだ。毎日が同じようでもある。スケジュール帳の予定欄に特記事項がなければ,それは消化されていく一日にすぎない。
しかし,そこに何か特殊なもの,表現すべきものを探そうと考えると,「その了解された記号」はむしろ邪魔になる。そして,目の前にあるもの,あるいはないものを,自分というファクターあるいは各種の切り口を持って,再構成,再認識しようと努める。
例えば,何気ない駅前の光景であっても,自分が通り過ぎる人との身長差を切り口にして見てみるとか,温度,空気,風,湿度,足下の感触,あるいは雑多な物の形象,街頭に溢れる広告やメッセージが持つ滑稽さを拾い上げたり,他人の行動を見,何気ない行動に意味を見つけるといった作業がそれだ。
こうして浮かび上がってくるものは,単なる描写の変形にすぎない。そこから,さらに創作するという作業が必要になる。道は遠いけれど,ぼくのイメージする小説や詩はこういったあたりから発露するのだろうと思う。
現実に小説を書こうと思うとかなり気負ってしまうことが多い。詩を書くように,小説であればありうるであろう表現の一部を,自分で再認識,再構成して書いてみる。
写生は,一般的だが,この言葉による疑似写生も同じくらい快い作業だ。
生活に張りがないと思ったり,孤独に暇を持て余す人には,格好の暇つぶしにもなる。これはぼくが,一人の喫茶店を楽しむ手法でもある。

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