さて,続けます。
本件のピアノ伴奏職務命令は,入学式の伴奏として音楽教師に課せられたもので,儀式の遂行のための命令であって,それ自体その人の思想信条を推察しようとか,侵害しようという意図に出たものとはいえないとはいえます。
しかし,教師の側ではその前から君が代のピアノ伴奏は自己の信条からできないと伝えていたのですから,これを理由に不利益処分(戒告)を課すことは,思想信条の自由を侵害する可能性を有します。
たかがピアノ伴奏ではないかと考えるかどうかが分かれ道になりそうですが,しかし現にこれを拒否しているのですから,それが不可欠に結びつくものとはいえないとは断定できないでしょう。しかも,音楽教師なのですから,ピアノを弾くことは生活の中心というか,自己形成の中心に位置するでしょう。
すると,やっぱりこれは人権侵害を伴うと考えるべきで,次にどうやってその調整をするかが問題になります。
この点で,全体の奉仕者論というのがある訳ですが,これは人権制約について抽象的な文言で広範な制約を可能にしてしまう点で妥当とはいえません。仮に,職務の特殊性を言うとすれば,その特殊性との関係がどのくらいなのかが問われなくてはいけないでしょう。そういう意味では,反対利益との比較考量を原則とする形で,具体的に考えていく必要があるでしょう。
このあたりが本件の本当の分かれ道ですね。特に学校行事をどう考えるかですね。那須補足意見のように,「全校的に統一性をもって整然と実施される必要」なんてことを言い出すと,当然秩序を乱した的な発想になるんでしょう。
しかし,それって何か気持ち悪い考えですね。なんだか命令する側の論理っていう気がします。やはりここでの主役は生徒と教師,場合によっては親なんじゃないでしょうか。君が代を歌わせろなんていうのは,それこそ安倍や石原式の発想,つまり権力の側からの愛国心涵養に向けての国家的利益の側面であって,これが人権制約の根拠になるっていうのは強い違和感を覚えますね。特に多数意見の論理では,下位法によって憲法を判断するに等しい論理展開で,教育基本法改正によって下位法がさらに変になる可能性が強い現状からすると,こんなんで人権が守れるのかよーと思ってしまいます。
今回は結局テープで対応した訳で,これで終わればまあそんなもんかってなことになる事案でした。しかし,テープでは伴奏の必要性を十分に満たすことはできないという那須補足意見なんかは,ちょっと驚き。生演奏重視ですか。
そんなもん現場で対応しろ,っていうかそんなに校長やりたかったら気合い入れて自分でピアノ覚えろ,一曲くらい何とかなるだろー,その方が箔が付くって。
ところが,その代わりに職務命令だーと怒鳴って,戒告でしょ。これが入学式のあり方かって思います。そんなことするからこそ,「全校的な統一性」が崩れ,一人の先生が泣くことになる訳です。そんな入学式,ぼくは絶対ゴメンだなー。
おそらくというか,確実に最高裁の判事たちは昨今の君が代にまつわる圧力を知らないんでしょうね。早速,3月10日付けの朝日新聞には,君が代に批判的な恩師を来賓として卒業式に呼ばないという対応がなされているという記事が載っています。
最高裁はこういう方向性にお墨付きを与えてしまった(とはいえ,事案が異なれば判断を異にする可能性は高いです。しかし,復古的な連中は勢いづくでしょうから,更なる人権侵害が横行しそうです)。現行憲法では政治的権能を有しない天皇は,2004年に君が代斉唱について,強制になるということがないのが望ましいと発言しているんだけどね。いやはや。
君が代の歴史的な経緯については判決は一言も触れていません。国旗国歌法案の制定経緯から見ても(審議過程),現状はかなり問題があると思うのですが(当時は強制しないことが当然の前提になっていた),第3小法廷にはそういう気負いはないようです。
ちなみに
日弁連の「公立の学校現場における「日の丸」・「君が代」の強制問題に関する意見書」は,この問題について正面から取り組んでいます。
まあ,四の五の言わずに歌を変えることからスタートした方がいいね。きっと。

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