教育委員会両沼支会総会が23日午後2時から、
会津美里町新鶴公民館を会場に行なわれた。退会者への
感謝状贈呈、
新会員紹介に続いて
議事に入ったが、特に質疑もなく、平成24年度事業報告書及び決算書、平成25年度予算書案など全ての案件が承認され、総会は
1時間ほどで終了した。
きょうの
研修会(講演会)は
「天海さんの謎に少しせまる」と題して行われた。
講師は
会津美里町文化財保護審議会副会長の
遠藤秀一さん。遠藤さんは
1時間40分にわたって熱弁を奮った。時間はいくらあっても足りない感じであった。筆者が初めて
「天海僧正」の名前を聞いたのは
20年数年前のことになる。地元の
Y製菓が
「天海大僧正」という
菓子(まんじゅう?)を製造していたので、「天海大僧正」なる人物がいたことだけは記憶にあった。
3年前、
社会教育委員を務めているときに、やはり
「天海僧正(てんかいそうじょう)」についての
講演を聞いたことはあったので、さらに人物・真相に興味をもって臨んだ。
天海僧正は
1536年(天文5年)奥州会津郡
高田村に生まれた。
11歳で
龍興寺(現会津美里町)に得度(とくど:仏教における僧侶となるための出家の儀式)し
隋風と号した。その後、
18歳で
登叡(とうえい:比叡山に赴くこと)したという。その後、
園城寺(おんじょうじ:別名
三井寺(みいでら))、
興福寺(こうふくじ:奈良市)に学び、
25歳で
足利学校(今の栃木県にあり、関東の最高学府)で学んだと言う。
天海僧正がいかなる人物だったのかが興味があるところなので、簡潔に述べれば、
徳川家康のブレーンとして、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した人なのである。あの徳川家康に向かって、これほど物言える人がいただろうかと思うくらいの、腕利きの
アドバイザー(指導助言者)だったらしい。晩年、家康は
「天海僧正は人中の仏なり」と言ったという。
天海は、2代将軍
秀忠、3代将軍
家光とも関わりを持っていた。当時としては驚くほど
長生きしたといろんな書物に書いてあるようだ。諸説はあるが
108歳で没した
(1632年:寛永9年)と聞いても即座には信じ難いほどである。だからその時代の武将との
“付き合い”も多かったようだ。一説に
「明智光秀=天海僧正」という説もあるようだが、こちらの説はやや根拠が薄いか。1571年(元亀2年)
織田信長により
比叡山が
焼き打ちに合うと
武田信玄の招聘を受けて
甲斐国に移住する。さらに
上野国(現在の群馬県)の
長楽寺を経て1588年(天正16年)に武蔵国の
無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市:後の
喜多院)に移り、
「天海」を号したとされる。
短時間で
天海僧正なる人物を理解するのは困難ではあるが、
会津に生まれた者が、徳川家康を仕切っていたとなれば、大いに興味が沸いても不思議ではない。歴史における天海の存在は理解できても、どうして
一般人の2倍以上も長生きできたのかという
疑問は払拭できそうにもない。なお、徳川家康は天海に
長生きの秘訣(ひけつ)、
長寿法を聞いたという。
天海は
「気は長く 勤めは堅く 色薄く 食細くして 心ひろかれ」と答えたという。
気は長く、
仕事はきっちり、
色(欲のこと)薄く、
食は少なめ、
心は広くという意味である。なるほど、現代社会に相通じ、これらを実践すれば長生きできるかも知れない。
総会・研修会終了後は、
新鶴温泉健康センターで
懇親会が開かれた。初対面、1年ぶり、あるいは20数年ぶりにお目に掛かった方と、
2時間歓談させて頂いた。酌をしながら歩いたので、料理の方は食べなかった方が多いかもしれない。長生きのために
“食は少なめ?”それとも、
酒は少なめ?w
余談になるが、
天海僧正(てんかいそうじょう)と女優の
天海祐希(あまみゆうき)は何ら繋がりはないことをお断りしておきたい。
総会で挨拶する両沼支会会長のKさん。
新会員の紹介があった。
講演で熱弁を奮う遠藤秀一さん。
歴代鶴ヶ城城主の家紋。エンピロ家の家紋もあるから驚き。なるほど少し関係があるのか。左上から、葦名、伊達、蒲生、上杉、左下から、加藤、保科、松平家の家紋。

この日の講演の要約。まずクイズ形式で話を進められた。エンピロも賞品をゲット。

19枚からなる紙芝居。まだゲラ刷りの状態で、紙の後ろはまっさらで字が書いていない。
懇親会はくじ引きで席を決めた。初の試みらしい。
待ちに待った乾杯。
宴会が始まると笑顔が広がる。

巻き物状においてあった献立表。

タジン鍋。器は本郷焼?

中身はラーメンのトッピングのようだが、献立表によれば「会津中華のチャーシュー」というメニューであった。

このところ毎日のように天ぷら尽くし。
宴会が始まっても携帯が気になる?
アトラクションで横笛を披露する昭和村の教育長。
締めは万歳三唱。

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