教育基本法から。  日本と国際社会

昨日に引き続き。
少し長いのですが、よろしくお願いします!

 連合国軍の占領統治の下、大日本帝国憲法下での最後の議会となった第90回帝国議会によって、日本国憲や学校教育法などとともに制定された。
 教育基本法は、制定直後から何度も改定論が起こった。「愛国心」や「伝統の尊重」といった考え方が欠けているとする賛成派と、「復古的な」なナショナリズムや国家への奉仕の教養につながりかねない。」とする反対派の対立が繰り返されてきたのである.
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  教育基本法
 
 
 
 日本で育った多くの人々の中に宗教観は薄いだろう。その根底に「八百万の神」思想が根づいているのを別として。
 そしていま「皇国思想」は教育の中に反映されていない。

 日本で育った人々、そしてこの問題について積極的に考えようとする人々にとって、日本という国はこれ以上に無いほどのよい事例だと思われる。

 政府はいままで、左翼やサヨクの影響によって「日本国」たる観点から、憲法やいま議題に持ち上がっている教育基本法などにふれることができなかった。
 
 それがいま改定に向けて動き出した。しかし最近とり立たされている「校内いじめ、そして自殺」にプッシュされたのか詳細を確認することはできないが衆院において野党欠席のまま与党単独で採決が行われ、可決された。いま野党側は参院での巻き返しを考えているようだが結果としては同じだろう。(これもおかしなシステムだなぁ。)
 
 一番の論点になっているのは、いままでの教育基本法になかった「道徳教育」についての規定だろうか?詳しくは Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95  で確認していただきたい。

 きになったフレーズは以下のとうりだ。
・愛国心
・日本人の育成


子供の自立は整理された秩序のもとに育つものだと私は考える。全てを自由にしても彼らの選択能力はまだ養われていない。選択肢を与える前に彼らの判断基準を育てなければならない。そして大人はその手段をどのような政策に反映するかということに責任を持たなければならない。

 要はその秩序の面をどこに持っていくかということで論議を呼んでいるのだろう。

 私はこれからの子供たちは社会的な立場と自己の確立という二面性を養うべきだと思う。確かに国策が現場に反映されて、

・国家の方針に沿った教育がなされるのはその時々の政権により教育が大きな影響を受けることになり教育の独立性を損なうもの

であってはいけない。しかし、

・「個性の尊重」「平和主義」「民主主義」の原理で基礎付けられた日本の教育基本法は、この改定によって「国家戦略の基本法」へと転換してしまいかねない。

国策が国家戦略でなくて何なのだろう。なんだか、ここにも戦後の影響を感じる。

国という規定があるかぎり、日本としてのアイデンティティー(意志の方向性)を発信し続けなければならない。でなければ日本の国際社会での立場は無いに等しい。

 現代の子供が養うべき二面性というのは、

学校が全てではないことを悟り、教えてもらえる基本的な知識を身につけつつも自分の興味ある分野を発掘していくことだ。部活動の時間を自分の勉強に費やしたいのならば、書類に自ら署名し保護者の署名ももらい学校で保管してもらう。その約束が破られた場合は、彼もしくは彼女は自動的に部活動への参加が義務付けられる。学校側にもフ柔軟な対応が求められる。
ではどうやって悟るのか。教員は教育的立場・政治的立場からそのような発言ができないかもしれない。大切なのは保護者の助力だろう。しかしそれが難しい時、子供は自分の立場を受け入れなければいけない。苦しいだろうがそうするしかない。せめてその一言をいってくれる人が周りにいることを祈る。それならば教師にもできる気がする。

 僕はいま教室内での公共性について一部の生徒に天からものを言っている気がしてならない。その生徒の多くは家庭に問題を抱えている。しかし何よりも大前提として守らなければいけない公共性はあるだろう。

・授業中に教室の中を歩き回っていいだろうか
・だれかが説明・質問をしているときにその妨げとなる私語を大きな声でしてもいいだろうか。
・そのあと、じぶんは何も聞いていなかったと自分の権利を主張できるものだろうか


答えはNOだ。そしてNOであって欲しい。
それが公共性だ。

政府は、2006年4月28日、改定案を閣議決定し、第164回通常国会(2006年1月‐2006年6月)に提出した。その前文では「公共の精神」があらたに盛り込まれている。考えてみれば当たり前のことで、法律で定める必要も無い常識の範囲内のことだ。それが子供の権利・人権などによって教育に甘さがしょうじ、秩序を教育されなかった生徒はいま都合のいい権利等の言葉を使って学校内の秩序を崩壊させているのではないだろうか。
教師たちだって必死に道をさがしている。自分が絶対ではないと感じているから必死に道を探すのだ。そこに政策の関与があり、子供からのプレッシャーがあり、生徒を受け止めたいという優しさがあり、秩序付けなければという義務もある。
親だけが文句を言える立場には無い。考えなければ、そして子供と話さなければならない。子供は理由を欲しがる。納得したいんだ。大切にされている、そこにはしっかりとし意図がある、大丈夫だと感じたいから。
いまそれに答えてやれる余裕のある教師はどのくらいいるだろうか。

僕はいま問題を頭の中で作り自分の経験・見たこと・聞いたことでシュミレーションしているに過ぎない。これが現実のすべてではないだろう。だけれど全くのうそでもないはずだ。

教育基本法、改定するのはいいが、では何をどうする?という話し合いは政治家で決めるよりも、政治家は各党の案を国民にオープンにした後、教育のプロ・研究者に引渡し彼らの助力を得、最終的に国民投票によって決を採ったがいいだろう。
(もう遅い?)

自分の経験について少し語りたい。24歳の僕が「経験」をくちにして「は!」と笑われては困るからだ。僕も中学の時いじめを受けていた。両親は知らなかった。教室の中ではいつも一人ででも授業には参加していたし友人がいないわけでもなかった。一部の目立つ子達からは特にうるさく言われた。僕にも原因があったに違いない。 何度か自殺を考えて、今でも覚えてる。学校から帰ってきてふと、もう嫌だなと思って、我慢するのをやめようと思った。悔しさは無かったけれど、なにかあるたびに誰も助ける人はいなくて、それがなおさら自分の恥をさらしているようでつらかった気がする。まな板の上にある包丁を手にとって手首にのせてみた。どうしようか、どうしよかと考えた末その包丁を動かすことはできなかった。その後ひとしきり泣いた覚えがある。

今ではすっかり元気さ。そんな体験をした子供でも生き延びれば学ぶことはできたんだ。私の場合は家庭環境が整っていたから乗り越えられたのだろうし、他人から見ればそれほどの事でもなかったのかも知れない。

子供たち、君には何が必要ですか?

あなたの選択範囲はまだまだ狭いのかもしれないよ。

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