ドイツのフットパスと厚真の雑木林の道でどちらがわたしにとって好ましいか  林とこころ

連休2日目の30日、先週に続き雑木林のフットパスに倒れた樹木をチェンソーで片付けて、どうやらオープンの格好がついた。今年も6月末まで何件か訪問予約が入ってきた。ひっそりとである。しかし、道の両側にはまだ懸かり木がたくさん見え、これらはそれまで片づけが間に合いそうもない。このままにしておこうと言う気になっている。ありのままを見てもらおうじゃないか。台風で倒れて整理が追いつかないのも実体なんだもの…。

この作業のあとナチュラルトレイル「まほろば」を点検してみた。小一時間かかる踏み分けのないルートで、林床がシンプルだからテープの案内だけで歩くコースだ。フキノトウが終わりフキが出始めていたので初物を家族分いただいた。今年3回目のこの地の逸品「ホッキとフキノトウのかき揚げ」を帰省中の子らに味わわせるために、とうのたったフキノトウもとった。朝日沼の水際(エコトーン)には7mmほどのオタマジャクシがうようよだった。そんな低みを見下ろしつつ、南向きの陽だまりでコナラの木に背をもたせて休む。そして次の南斜面で見つけたカラマツの根元でも同じようにもたれて胸一杯深呼吸する。

こうしてみると、あの感動的な美しい南ドイツのフットパスと、混然たるここの「道なき道」のどちらが、わたしにとって本当に好ましいものなのか、ようやくはっきりと結論が見えてきたような気がする。気がするというより体がそう感じているような。多様なゆえに雑然とし、かつヒグマもエゾシカもアカガエルの子供も、そしてマガン・ヒシクイが立ち寄る田園、沼と一体のこの環境こそ、わたしにはかけがえのないものだ、と。これらとともにいて、一体かのように思えることこそ至福と呼べるひと時である。

小屋に戻ると首の辺りにモソモソするものがある。指でつかんでみるとダニだった。もう出ている!!

(ここの雑木林の詳細は http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/にて)
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スピリットは自他一如  林とこころ

連休のしあわせとは。「どこへも行かないでこの辺で過ごすこと」。
うーん、年取ったね。雑木林に仕事しに行くだけで満足、なんてこと本気で思うのだから。そしてこの頃、外国に行くのも終わりかな、なんて考える自分。そのくせ、世間に好奇心も関心もあるのだから。

そう、派手なことに興味が薄れてややまじめで本質的なところをうろつきたいってことか。今日、サライの谷沢永一の文章をトイレで読んでいたら、ウイスキーのスピリットという言葉が目に入って膝をうった。蒸留したての最初は無色透明だという話で、それにやがてオークから琥珀の色がつく。琥珀というのは、こころであり暮らしであり個性。きっとスピリットという意味は万物に共通するあの普遍的な霊のことなんだ。スピリットの段階では自他一如、そう直感した。
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休みの前のしあわせ  家族

なんとウキウキ!!休み、特に連休の『前夜』はすごいな。
もうどこへ出かけるという予定も立てないで里帰りする子らを待つ…。
これが楽しくないわけがない。特に配偶者。
 したがって配偶者はテンションが上がっておる。だから今まで全く協力体制で来たように見えたことにも愚痴を言い、抗う。攻められるからわたしもたまに応戦してみる。「冗談じゃない」。それも、それなりに楽しいです!
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うつに効く手仕事  林とこころ

久々にいい天気なのにほぼ一日中家に居てすごす。夕方、糸井公園に出かけてドロノキに寄りかかり土手に寝転んだりした後、銭湯でしばし汗をかく。思えばわたしは風呂などでリラックスすることを40代半ばまで知らなかった。いや、体をリラックスさせること自体を知らなかったといっていい。これは出来るようになってからの実感である。だから病的だったなあ、とかつてを思い出すのだ。辛い日々に、どこか日常の抜け道があるはずだな、と探していたときにふと見つけたのが、この銭湯とサウナの時間だった。高温と水風呂の低温。このころから風邪を引きにくくなった。人生、日々、発見である。

 一昨日の夜、拙著『林とこころ』の出版を祝って下さるこじんまりした会があって、そこで数ヶ月ぶりに養蜂家でメロン栽培家のSさんとお会いした。Sさんはわたしにとってはファーブルのような人で、生きた生物学というか、ミツバチやメロンを中心にしてみた生物世界を、例えばミツバチにとっての雑木林や原野の意味などを実に立体的に描いてくれる先生なのである。

 そのSさんが言う。「あんたが本に書いているように、達成感は確かにうつ病を治すね。この前から、うつ病の人をメロンのハウスで預かっていたんだけど仕事を始めて間もなく治っちゃったんだ。仕事のあとがはっきりわかるあの達成感がいいみたい」。そうなのだ。林道の雑草を刈るような瑣末な手仕事の良さは、50m、100mときれいに仕上がった結果が見える達成感だ。それがどんな意味があるか、あとで評価が出てくるけど少なくともすっきりしたり、畑仕事の植え付けであればとにかく生産の第一歩が始まって蓄積されていくというそれだけ。それでいいのだ。

 そしてわたし。「そうですよね、あの手仕事って庭の草むしりだって病んだこころに効きますよね。奥さんを亡くした友人が最も癒されたのは土いじりだと言ってた。結局、土ではないでしょうか。地べたの手仕事。だからSさんはいつも前向きで元気いいんだと思うし」。

 「そうだよな」とSさん。畑仕事でうつが治る。林の仕事でもうつは治るかも。畑仕事は畑をもたないと気軽にみんなが出来ないが、せめて林の散歩が出来るようになればいい。こぎれいな林、歩いてみたくなり、歩くとちょっと暗い気分が晴れる道、そんな仕掛けを作りたいと切に思う。
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里山仕事で、命拾いする  林とこころ

ログハウスを構成する丸太の一部が腐れ始めている。湿潤な日本の風土の中でもかなりからっとしているとされる北海道で、やっぱりログは腐れる。わが苫東の雑木林ケアセンターも例に漏れず突き出たログエンドにキノコが生えてきた。午前中は作業の相方である長老と、メインの柱になるアカシヤを間伐のエリアから伐採し、丸太にして小屋までうんこら運搬した。昼前、長老と別れた後、薪作りなどして2時過ぎからはフットパスの開作を始めた。道に風倒木や間伐木などが覆いかぶさり行く手を塞ぐから毎春それらを除く必要があるのだ。

 チェンソーを使った独りの作業も後半にさしかかったカラマツ林でのことだった。そこでは比較的素性のいいシラカバ7,8本が昨年夏の台風で倒れ掛かって片付ける必要があった。わたしはまず、幹折れした比較的簡単なものから片付けることにした。根返りした樹木の伐採は微妙に気を使わざるを得ないからだ。簡単そうに見えた幹折れ木にまず小さな受けをつくって、反対側に移ってチェンソーのブレードを入れようとしたときだった。何かがストッと落ちた。まさかと思ってうえを見ると折れてつながっていた幹がない。アッ。わずか2,3秒の出来事だった。わたしは騒音防止のイアマフをつけているから、落下の微妙な音を聞き漏らしていたはずで、地面に落ちた音すら気づかなかった。

 恐る恐る落ちた幹を持ってみた。持ち上がらない。すごい重量だ。ガーン。間一髪だった。やばかったのである。2,3秒遅れで直撃していたら死んでいたかもしれない。そんな状況がジワリジワリと見えてきた。本格的な伐採などしないつもりだったから、ヘルメットではなく布の帽子にイアマフという軽い出で立ちであったこともゾッとさせた。

 臆病なほど用心するわたしだけど、安全をチェックするという基本において今日はどうもいい加減だったかもしれない。マンネリの中で作業をしていたかもしれない。あとで応援に来てくれた長老にことの顛末を話すと、静かに「危ないからよく常に上を見なくてはいけない」「今日はいいかなと思うときにヘルメットにからむ事故がでる」と言った。まさにそのとおりであった。

 不幸中の無事故、今日のこの幸運は、では誰に感謝すべきだろうか。自然は事象の発生確立を左右できない。それをどう察知し予防するか、こんな作業ならば安全チェックと注意と技術に尽きる。だがいつも注意のテンションを保つことが難しい。そこをギリギリ進めることが出来なければ林で本当の保育をする資格がない!そういわれているような気がする。猛省する午後、そして引きずる夜だった。そんなときは粛々と独り、酒で清めるしかなかった。
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ケヤキ  林とこころ

年老いた母親の様子を見に、週末、空路、郷里・山形に帰った。1年ぶりだろうか。サクランボの花が見ごろかな、と勝手に期待していたが残念、サクラの後だという。どうもその辺の生物暦感覚がもうまったくおぼろげだ。でも、早春の田園風景は随分なごみが感じられる。ちょうど、マンガ「日本昔話」のようなムニョーというほのぼの感。

 そんな田園風景の中を散歩しているとひときわ目立つケヤキの大木が目に入ったのですかさず行ってみた。実家から200メートルほどのところだから40年前ころにも随分目だったはずだし、遊びのエリアだったのに、実はあんまり記憶がない。恐らくもっと色々な樹木があの辺にあっただろうから、きっとそれに埋もれていたのではないか。今は3本のケヤキが県の保存樹になって厭でも目に入る。

 本当に大きい!直径2m以上、高さは30mほどか、それにさすがケヤキだ、枝振りがすごい。かつて実家の反対の方角にもこんなサイズのケヤキがあったのだが、日当たりが悪いという隣近所の合意で伐採されたというのを知った。ところが、その周りではその後何人かが死んだ、というたたりのような噂もあって子供心に恐れおののいた記憶がある。一方こちらはお寺の境内であり、このまま安住できるようなたたずまいだから安心だ。でも隣に住む方は、葉っぱが雨どいに詰まって腐るんだとちょっとこぼしていた。

 わたしはそのケヤキに背を持たせかけた。朝日連峰に向かって呼吸をしてみる。ううむ、いい気分だ。どんどん、呼吸が深くなるのがわかる。長野・長谷村のケヤキのオブジェと同様、ケヤキはわたしの身体の感性にビンビン響くような気がする。カラマツ、トドマツ、ケヤキ。「相性が良さそうだなと思える固体とあちこちで出会えるように」、これが今年のささやかな願いだったが、意外とそれは着々と進んでいる。ほとんど、「人」との出会いと同じ。引っ込み思案のわたしでもこちらは気軽に会うことができる。

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“めまい”と“クシャミ”  身体

一昨日の夕方からめまいが始まり、次第にひどくなって夜中トイレに起きたときはふらふら状態、翌朝ややよくなって仕事に出るときは、それでもJRのプラットホームに落ちないよう緊張した。

なんだこりゃ〜。数ヶ月前はひどい難聴と耳鳴り、そしてめまい。そのときはフワフワするようなめまいだったが今回はめまいが中心。なぜ?どうしたの?午前の仕事を終えてからすぐ早退して苫小牧に帰り、以前からの知人でもある耳鼻咽喉科のY先生を訪ねた。先生はメニエール病の大家でもあるが、10年前に交通事故がもとで左耳が難聴に陥ったときも、tympanic massage unitという鼓膜マッサージの装置を用いて10日ほどでほぼ回復まで持って行ってくれたのだ。

さて、今回。色々な検査の後に足を前後に開いて綱渡り状態の体勢にして目をつぶらされた。左右、交替したが、いずれも左右にぶれて安定しない。驚くほどアンバランスだった。ドヒャー、なんだこのバランス感覚は!!で、結論は、内耳の障害。バランスの三半規管が機能低下し、音を聞く「蝸牛」も障害が出て高音部が聞こえにくい。右も低音部分の聴覚が落ちているから、雑音の中やモゴモゴの話は聞こえにくいはず…、とのこと。そのとおりで、会議などは蚊帳の外になることもあるし、騒々しい懇親会などはもうほとんど理解不能状態になる。子供のころ、最上川などでの水遊びで、数年、左耳が中耳炎を患っていたことも関係がありそうだ。

ただ、何がキッカケで今回こうなったかは、自分の観察以外ヒントがない。そこで思い出してみる。「……」。考えて思い至ったのが「クシャミ」。かつて職場の同僚だったY君がめまいで倒れたことがあったのだ。脳疾患という噂も流れた入院だったが、数日後出社した彼の診察結果は、花粉症が原因の「クシャミ」だった。詳しくは忘れたが、クシャミを思い切りすると耳の器官に影響が出ることをこのとき初めて知ったのだった。そういえば、一昨日の夕方、チョッと気になるクシャミをした。次回のクシャミは要チェックだ。
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「むふふ」の整体  身体

夕方、うわさの整体に行ってきた。歩くと左の腰から下がしびれること、朝いつも、異常な腰の重さを感じることが、行ってみたい直接の理由だったが、あと、「気」を使うような話を聞いたこと、そして、その辺の体の話をじっくり専門家に聞いてみたいと思ったこと、こんな興味ももうひとつのきっかけだった。しかも、同じ町内。

 坐骨神経痛を自分でツボを発見して好転反応を経て直った話もした。当然のように聞いてもらったのはチョッと意外なうれしさであり、それだけでも、あ、これから通おうかなという気になった。師は20分ほどかけてゆっくりわたしの体にアタリをつけたあと、坐骨神経痛の核心である、筋肉に隠れた神経のありかを教えてくれた。そして、股関節のソケイブ靭帯とかいうところがとても硬いと言った。股関節部のその筋がとても固まっているから、朝、血の巡りが悪くなって異様な疲れを覚えるはずだという。

 わたしは「ストレッチのおかげで股関節は柔らかいんですが」、といったら「それは筋肉です」と即答。そんなんだあ!道理で師の押す股関節のツボはとても痛・気持ちよい。鋭い痛みも伴う。

 そんな風な指の感覚を堪能して1時間。身体の感覚にじっと集中しつつ、総点検する気分はいい。自分という身体を題材にしくみを教えてもらうという稀有な経験だった。質問もして、かつ親切に応えてもらえる関係というのも、久しく望んでいた状況だ。手かざしでも気功でもないらしいけど、じんわり熱くなる技を使っていた。「気」を込めるのだと言っていた。治療はやはり安くはないけど、快感を得つつ身体の改善が出来る授業料としては申し分ないと思った。これからが楽しみ。だから、むふふ。
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アルコールはいたずらする  身体

先週74歳で他界してしまったKさんの追悼と称してサッポロのもと同僚ら7人で飲む。がちゃがちゃやってるうちに時間がたって9時半の列車に飛び乗った。が、飲み会が充実していた証拠、わたし目は今朝、アルコールが残っていた。アルコールが残ると気分がマイナーになる。かつてある病と暮らしているときに気づいて確信したこと=「アルコールの飲みすぎはは鬱陶しさを助長する」「アルコールは自律神経をいたずらする」。

だから、うつ系の場合はアルコールは控えること…。その反省をしつつまどろんでいる今朝の7時、間伐のパートナー・長老から「林道はOK、山仕事はできるぞお!」と電話のお誘いあり。喜んで出かけてばっちり力仕事。でもやっぱり不調は不調。樹林気功で山仕事をしめくくり、夕方、Hさんと家で真っ暗になるまで明かりなしでダベリ。夕暮れのグラデーション感覚でやっと復調。銭湯でフィニッシュ。ビール、プシュッ。
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「ビールの本場」の盲点  

気温がぬるんだ今日、いつも玄関におく缶ビールが適温だった。味の濃い、えぐみのあるビールを好むわたしは、国産ではエビスや黒(アサヒもサッポロ、そしてキリンも)、あるいはクラシックあたりが贔屓になる。ドイツのまちまちの地ビールはもちろん、オランダのグロルシュ、チェコのピルスナーなど臭みの残る個性派が実は大好きだ。こういったビールは10℃前後でいい味が出るのだけど、残念、北海道のビール保管温度はどこもは超・冷たい〜!スーパードライ的な4℃あたりの温度管理だから、うまみ系のビールはキJRのキオスクでは全くうまくない。その点、玄関に置いといたエビスの黒のカートンは、今日の夕方、ゆるゆると温んでうまかった。ようやく、外気が冷蔵庫より高くなった証拠。ともかく、冷えた(冷えすぎた)ビールのCF、あれは画像のマジックだ。

思えば、本当に長い冬だった。ビールがおいしいといわれる乾いた北海道、しかしビール文化は根付いていない気がする。自分で味覚を調整すべきだとすれば、それはあきらかな後退だ。ビールの種類によって適温をチェックする。そういうこだわりをもちたい。とすれば、コンビニやキオスクはなべて落第!まずは恵庭のサッポロビール工場で、最もうまく保温されたクラシックをご賞味あれかし。オープンのころ、ビールはこれだ、と再確認してからもう随分たってしまった。
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樹林気功  林とこころ

つたもり山林の広場で、小一時間、樹木相手に深呼吸をしてすごした。つたもり山林というのは間伐の現場の南東1.5kmほどのところにある苫東の緑の中心である。いや、あったというべきか。苫東は緑地への視線がトーンダウンしたからだ。平成19年にそこで全国植樹会が行われることになって別の注目を浴び始めている。

さて、そのつたもり山林の入り口広場は、もとの所有者である蔦森春明さんの住居と小屋があったところで、屋敷林としてコナラやヤチダモ、クルミの大木が残され、トドマツとカラマツの造林木も直径60cmほどになる。下草が抑えられ地面が平らで陽光もそそぐから、わたしはここで樹林気功の真似をよくする。別に気功を習ったわけではないわたしには所詮真似事でしかないのだが、個別の樹木と向き合ったり背中合わせになったりして、一心同体になったつもりで深い呼吸を繰り返すのである。

樹林気功は樹木の気に着目し、木から気をもらう。樹木は天と地の気を混ぜ合わせて人間が利用しやすい気を作るのだという。混元の気と呼ばれる。わたしは「ポスト森林浴」に向かってからいつもこの樹林気功という概念から離れられない。しかし、これが樹林気功だという確信もまだもてない。だから、時々はこうやって独り向き合ってみるのである。呼吸法など身体学で昨今注目の斉藤孝氏は、樹林気功はどうもよくわからないのでやめちゃった、とどこかでもらしていた。また、ある方はかつて樹林気功に手を染めたが雑音が多くてやめてしまった、という。「よしよし、それならば…」、そんな気持ちもないわけではない。なにしろ、週末のある時間は間違いなく個別の樹木らと付き合うのだから。

そう考えるようになったのも、伐採という行為をするようになってからだ。個々の樹木と否応なく対峙することになったから、樹木の表情というのをよく見るようになったことと深い関係がある。また、イメージとして、ある樹木と自分を重ねたりなりきったりすることは割りと簡単に出来るようになった。風に揺れてみたり、枝をリスや野鳥に遊ばせたりもする。相手は伊勢神宮のスギの大木だったり(これが一番気持ちいい)、郷里・山形の実家にあったクスノキだったり、ログハウス前のカラマツ、中央公園のハルニレ、つたもりのクルミだったりと、その日ごとに対象を変えるのだ。

ともかく、大木は気持ちがいい。より大きくなるにつれ樹木は表情を明確にする。地に根をおろす。根をおろしたかどうかは、幹や枝振りをみればわかる。これは多くの樹木を移植してきた経験でわかるようになったことだ。だから、土地に根をおろした樹木をおろそかにしてはいけない。理由があって伐るときはそれなりの意を尽くさなければならない。樹林気功のまねごとは、少なくとも自分の心身と環境との間を感覚として重ね合わせることに繋げた。これらのことを言葉に表すこと、わかってもらうことはちょっとむずかしいような気がしてきた。

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