ナンバ歩きはこれか?  身体

腰の状態にはいつも関心が深いから、あれこれ体の反応に目と耳と感性の窓を開く。表面的にはそれと全然関係ないけど、密かにナンバ歩きを試してみた。出す足だけでなく腰そのものも前に出すので、歩くスピードが増すような感じがする。

しかし…。快適に感じていた股関節の痛みがずんずんひどくなってきた。今は、左の股関節のストレッチをすると激痛がある。これはどうした?
使わなかった股関節にちょっとしたひねりが加わって、炎症というかちょっとした闘いが行なわれている感じといったところか。

この対話、この感覚。体の反応と同じような心の観察。その先には大事なステージが待っているみたい。
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朝の冥想  林とこころ

朝の6時過ぎ、快晴で外の気温は15℃に近かったので、朝の勤めであるヨガと冥想をベランダですることにした。ウッドデッキにテーブルクロスを敷いて(写真の白い部分)、ゆっくり呼吸を整えながら体の隅々まで筋を伸ばすヨガ・アーサナ。筋が延びるほどに呼吸が深くなるのがわかるのです。往来を人や車が通るけど、カーポートや生垣やゴールデンクレストの植木の陰になって当方のあられもないパジャマ姿を見つけられる心配がない。

太陽の光を浴びつつ適温のそよ風を感じながらのストレッチは格別だ。リラクゼーションの極致である。大気に満ちたエネルギーの一部がぐんぐん体に沁み込んでお腹あたりにたまっていくのをイメージする。ありがたい。このほかに何を求めるのだろう、という内なる声が聞こえる。

林の中、海辺、そんな自然の中での深い呼吸は自分がその一部であるという一体感が生まれやすい。でも玄関先でも十分。太陽と静かさと少しばかりの緑と清々しい空気があれば、自宅であってもリゾートになる。週末はこんな風にして過ごすと地域は養生の里ということになる。雑木林はさながら養生園。Longevity center である。かつてなら半分負け惜しみだったかもしれないが、加齢の力はずしりと重い。今は本気でそう思う。

ヨガは羅針盤的である。自分の中にある神性の見つけ方のヒントをくれる。体の健康、心のコントロールを通じて、昨今誰もいわなくなった「自己の完成」みたいなことに向かう。それを密かに「小修行」と呼んでみる。
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林のリラクゼーション  林とこころ

この冬、管理する雑木林では年配のプロの協力を得て約2ヘクタールの間伐を終えました。おかげでかなり広い里山イメージが生まれてきました。これはかつてない変化をにおわす芽であり、今までよりもこのフィールドの潜在的な素顔がググッと見えてきたという感じがしています。

これまでは「雑木林」とか「里山」とか一般的なイメージの中で漠然と「それらしさ=里山の雑木林」の拡大を淡々と図っていたのです。でも、ここの特殊性やオリジナルな長所をそんなに表現できていたのかな、という反省がありました。どうも地域のいい面をもっとわかりやすく見えやすく風景や雰囲気に映し出していくべきではないかという思いを静かにが膨らませていたのです。ここへきて、行くべき先がよりはっきりと見えつつあります。

それは右肩あがりの経済を目的とした開発的インフラではないもので、営みや暮らしの素顔のままで世の中の役に立つような状態、目指すとすればそんなところ。いってみれば、理想的な暮らしの環境の一面を作り出してみたいという欲求です。間伐材という木質エネルギーをもっと効率よく使いたいし、木質エネルギーを生む出す働き手の仕掛けも、複雑な消費ルートも解決しなければならない…。そして結果として生み出される今までにない林の景観、林の雰囲気…。

それは実はほんもののリラクゼーションの世界だといえます。森林セラピーの研究が進む中で、少なくとも今ハッキリしていることは、人は林の中でリラックスするということであり、病気などの治癒効果はこのリラクゼーションから始まっていることだけは確かです。だから、自然の養生を求める人は、身近なところにリラックスできる林をもつこと。それが出来るところは、どうも大都市ではなく地方しかない。エネルギーも養生も環境も、いろいろな山積した問題の多くを一挙に解決する社会モデル(そんなものはすぐにはないのですが)にそろそろ本腰で近づいてみる必要があるのではないか。そこに雇用も地域再生の芽も隠れているように見えます。現在の雑木林のフィールドから必要な特殊解をあぶりだせないだろうか…。2005年のmy field、マイ・雑木林を見ながら、そんなことを意識し始めました。
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肩甲骨周辺のこりをほぐす  身体

よく肩甲骨の内側が凝っているんですね、わたしは。特に左。自分ではなかなか手の届かないところだから、こりがひどい時はハテナマークの器具を使って押すか、自動のマッサージ器に頼る。この肩甲骨の内側は常時こりが残っており、イライラの元になっているような気がする。しかし、ある日気功の準備運動みたいなスワイショウという手をぶらぶらする運動を知ってから、この部分のこりに対する対処が楽になった。コントロールする術のひとつを体得したと喜ぶこととなった。手ぶらをすると、こりがわかり、かつ少しずつ改善されることを感じる。ただし、消えはしない。

 昨日、以前から気になっていた「ナンバ走り」を読んでみて、この肩甲骨の運動方法を知るに及んだのだ。目を見開かせられた感じ。肩、肋骨を井桁と考えてひし形を左右に移動して見る、肩甲骨を閉じたり開いたりしてみる、壁に手をついて同じように開閉する…。特に肋骨ストレッチが面白い。マハラジャ、マハラジャ〜♪のクニャクニャ踊りに似てるのだ(わかるかなあ?)。こうして肩甲骨の可動域を広げるのだという。結構楽しんで密かに30分ほどやっただろうか。

 そして今朝、肩甲骨の内側が疲れていた。今度は運動によるこり。ただ、腕を回してみると、ここ10年以上も続いている左の五十肩的な鈍い疼痛が消えている。これはどうしたことか…。思いがけないところにまず改良点が出てきた。「ナンバ走り」をぱらぱら読んでみるとやがては肩と肋骨の運動を分離できるのだという。よし、そこまで少しずつやってみよう!!

 この前の整体師の話でも、左足の痺れも股関節の付け根(鼠けい部)の柔軟性にかかっているようだし、背骨を受けて足の骨とつながっている仙骨周辺をどうやって柔らかくするか、これと類似した超重要事項のように思えてきた。体はテキストだ。呼吸、骨格、これらを整えつつその上に心をのっけたい。からだ様…。こう呼んでみると、「自分の体」、なんて思っていたことが実に不遜であったことに、ちょっとだけ気づくことになる。
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奥深い山で憩える胆力、あるいは能力  林とこころ

釣友・川仙人に誘われフライロッドをもって早春の沢を歩いてみた。雪解けの増水はまだまだ続いているが十分歩ける状態だった。葉っぱのない森はそれはそれでものすごく気持ちがいいものだ。そこを、水しぶきをおこしつつ水が流れる。両岸がところどころ岩壁だったり、川床も岩盤だったからゴルジュ(細い廊下)状態が続いて、わたしたちは大地の割れ目をたどっているみたいだった。
 
 ヒグマが棲む環境に入り込んでいるわけだけど、この頃はクマスプレーを持参しているせいか、かつてのようなビクビク感はなくなった。それだけでなく、恐らく加齢にともなった安定とか落ち着き、そして図太さもあるだろうというのが近年の実感だ。昔の人なら、そりゃあ、胆力というもんだ、と言いそうな気もする。50歳を越えるころから、こわいものの対象が変わって、自然が大分近いものになっている。一体になる。という意味も体が知りつつある。だから、奥深い山で憩える。若いころは決してこうはいかなかった。平均寿命の折り返しを過ぎて、ああ、自分も自然にかえる日が近づいているんだなあ、とか思うのだ。

 多様な生き物とともに大地の割れ目にいて、心が安らいでリラックスしている。早春の広葉樹林はそんな幸福感を増幅してくれる
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