結婚、親心、町内会  

■昨日は久々の結婚式にお呼ばれ。午前の結婚式と正午からの披露宴をあわせると、ほとんど勤務の日と違いがない感じ。で、
夕方ほろ酔いで帰ってきた。昼のお酒はおいしく、倍効く。

と、出かける前のわたしはちょっと「一日仕事」になるのをうらんだことを白状します。

でも。人と人が真剣に結ばれるのは、やっぱり、感動モノでした。夫婦になる真剣な契り、親心、子供の親に対する愛情‥。

新婦の両親があいさつに来られ、ドモドモ、やれやれ、こもごもを瞬時に感じ取るひととき。これらは洗心を誘うイベントだ。

と、となりの、ほとんど付き合いのなかった同僚がウーロン茶である。
「どして?」
「これから孫の運動会!」どっひゃー!その歳で? それから根掘り葉掘り。

子どもを作るって、親になるって、じじいになるって、大変なドラマなんだなあ‥、と。だから、結婚はすべし、子供は作って親心を味わうべし、そうしてはじめて親子のこころのフルセットを知る、と思うわけです。そう簡単でないけど。

■折りしも、NHKが「少子高齢化を考える」特集を2夜連続でやっており、取っておいてもらった録画をみた。
日本は変わりうる、みんなで帰るべし、というパンチのないありきたりの結論にわたしはたどり着いた。わたしもまだまだ変わりつつある。

昨夜は久々の雨、シトシト。慈雨というのかな。

■そして今日。林の仕事を片付けて2時過ぎから庭に出ていると、隣のご主人が顔を出し、ペットの追悼話をする。向かいのKさんがアプローチのインターロッキングをはがし始めたので見に行く。そこで、市井の感性と情報を交歓。ご老人には、下手に求め過ぎない哲学がどうも出来ているような感じがぬぐえない‥。
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何となくわかりました。やってみるものです。
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冥想が深くなる作法  林とこころ

手を軽く前にだして目を瞑り、全体の力を抜いて深呼吸をしながら好きな「樹木」になってみる。人間は樹木になったというイメージを浮かべて、枝に小鳥が集まり枝を飛び交う様を想像することもできる。土地の風土のにおいと力を地中と大気から樹木(体)に呼び込んで、体のいらないものをフーッと吐き出す。この行為そのものがすでに立って行なう禅なのだというが、これを樹木のそばでやるのがタントーコウという気功だと聞いた。わたしはこれを家でも林でも(ただし、人がいない時だけ)よくやる。

これを家でヨガのストレッチ(アーサナ)と冥想の間に行なうと、わたしの場合はとても深い冥想に入ることが良くある。昨日、今日の土日もそうだった。ヨガそのものが冥想の準備運動みたいだが、タントーコウがさらにリラクゼーションを促すのだろうと思う。木ばかりでなく、ヘビになって体を揺らしたり尺取虫になって体を前後にくねらせたり、ヒグマになってフロアを四つんばいで歩いたり、さまざまな生き物になってみるのである。

そんな馬鹿な、と言われるかもしれないが意外と簡単にそうなることはできる。かの五木寛之氏は腰痛の折は四つんばいになって歩くといい、と自らの経験から推奨している。本では、気分まで動物になるかどうかは残念ながらはっきりと書いていないが、気功にもかなり通じている氏のことだから気功が動物のまねをすることは当然知っており、きっと意識しているはずだ。「クマになって」とか「猿になって」とか気分の詳細まで書くとなにかと面倒だから省略したのだと思う。

実はそういった原始的な生き物の脳にこそ、呼吸など生きるための根源的な仕掛けが備わっているから、そこを刺激せよということになるらしい。その根源的な脳の機能のうえに高度な前頭葉の機能が乗っかっているからだ。そう考えてみると、爬虫類になってみたり、哺乳類になってみたりすることの意味はありそうで、かたやで植物の身になって自分と植物の共通する意識レベルまで降ろしてみるのは、案外意味を持っているかもしれない。いや、きっとある。少なくともその間、人間であることは忘れている。もちろん、いわゆる「こころ」からは大分離れてしまっている。
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背中で初めて手が結べた!  身体

以前から左手をうえにすると背中で手を結ぶことができないでいた。右手がうえなら大丈夫。どうも身体が少しゆがんでいるようで、カイロプラクティックに行くと足の長さが違うとか、骨盤がずれているとか言われた。
でもそれは私だけでなく、みんなそうだとよく言う。

きっとそうだろうと思う。

でも、今日の昼前にパソコン仕事の休憩に、左手をうえにして結ぼうとしたら、ナント、指が触れた。ヤッホー!きっと生まれて初めて。

なぜだろう。なにが最近違うだろうと考えた。

@肩胛骨の内側を良くほぐすようになった
Aぐにゃぐにゃ体操をするようになった。
B歩くときに腰の緊張を意識的に解いて歩くようになった。
C基本的に股関節と肩の菱形を意識して、ナンバに近づこうとした。

こんなところだ。なにか関係があるのだろうか。
ともかく、自分で直す自療、自己整体。しみじみと今日の成功を思い返してみる。シミジミ…

最近は医者が遠くなった。(ただし歯医者は別)うれしい。
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歩き方  身体

ナンバ歩きをするようになって、股関節の不具合が生じたけれど、依然として、それがわたしの非常識によるのか何なのかはわからないまま。ただ、人間の腰(ただし自分の場合に限定して)というのは、そんなに、感性が高いということをしみじみ実感した。

その後どうなったか。股関節の不具合は10日くらい続いて、毎朝行なう
ヨガのストレッチ(アーサナ)では開脚前屈で久々に左の股関節が痛んだ。痛気持ちよいという段階でなくて、やや苦痛。これを1週間我慢してすごしているうちに、歩行上の問題は消えた。

原因は結局良くわからないが、股関節はもっと動かそうと思って腰に付随する、あるいは腰の股関節などに意味を見つけてきた動作を、時間の許す限りしてみようと思う。からだはとても喜んでくれる。

とりあえず、今の歩き方は、腰の緊張をズドーンと抜いて歩く自己流。肩や肩甲骨は勿論、腰の緊張も抜こうとしたその瞬間、リアクションが起こる。気持ちよい疼痛、筋肉のきしみ。これに当面、要・注目。
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新緑の雑木林を歩く(待ちわびた新緑第2弾)  林とこころ

コナラの葉がちょうど7分ほど開いて、天気は霧雨からくもりへ。
あいにくの天気ながら、こんな田舎道を楽しみたいという知人と家族が10人あまり集まった。「山菜ツアーだよ」と呼びかけたものの、すでにウドもタラノメも、大きくなりすぎてピークは惜しくもはずした感じだった。

でも大丈夫。麦畑、あぶらなの咲く雑木林の防風林は、歩いていてすこぶる気持ちがいいから。そして滅多に味わえない雰囲気だから。スケール感のあるフットパスだという視点があれば、楽しみ方はまた変わる。いささかさびしくて、農地特有の大地と生き物の「気」が濃厚に感じられて‥。

場所はいつもの雑木林の管理小屋の西2km。50mの耕地防風林が碁盤目状に作られている平坦な一角。迷子になりそうなほど広いから、土地勘がないと不安に駆られるかもしれない。「マイ・フィールド」というのは土地勘によって初めてリラックス状態を獲得するが、これは自分の土地であれ他人のものであれ、大事なこと。案外隠れた真理だと思う。

そんな半日のあと、小屋に戻って焚き火を囲んで密かな「春祭り」の宴を張る。歓談は人生のこやし。夜、東京にすんで週末は奥地の山の辺で命の洗濯をするKさんに近況をメールする。(写真は防風林と麦畑の間をぬう小径)

「‥‥(略)関東の奥地はわたしにはまだ本格的な経験がなく、これからもきっとないだろうと思いますが、雑誌等がしばしば伝えてくれる画像でうかがい知るのみです。

背後の人口が十分に多ければ、関東周辺の田園地帯だけでなく、長野や茨城、山梨の田園地帯も十分、集落崩壊の憂き目に会わずになんとか、そこそこにやっていける、裏返すと、日本人のいわゆる田舎思考、田園回帰、などというものもその程度で、都市の便利さから所詮大きく離れられない、そんな実情を色濃く反映しているものと思われます。もちろん、地方の都市づくりにおいて人を土地につなぐインフラがまだであることにも原因はあります。

では、お前が見本を示してみろ!といわれると、それもできないのです、困ったことに。ただ、地方の小都市で田舎風に住まうというぐらいです。そこにあえて形容詞を入れれば「結構、本気で満足げに」という感じですね(笑い)。

今日、前の職場のわたしより年配の方々をログハウスに呼んで、遅い山菜取りツアーをしました。コナラの葉が8分ほど開いて、遅い新緑ツアーでもありました。耕地防風林の縁を歩きながら、伸び過ぎた独活とヨブスマソウなどをとりつつ、言ってみれば勇払(ゆうふつ)原野の歴史感覚に身を浸すのです。土地の切り盛りのない大地の使い方というのは、こんなにも心身をリラックスすさせるものなのでしょうか?‥‥」
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コナラの新緑が萌える  林とこころ

ブログとかmixiなどソーシャルネットワークでは、案外、ネーチャー系のサイトがありません。緑に限定するとどちらかというとガーデニングや公園の緑のアーバン系。また、当然かも知れませんが50歳以上のサイトと思われるところはぐんと少なく、古い言い方だけどヤング系。つまり、今流行のスローライフ、ルーラル関係はあんまり見かけないのはわたしの不勉強か?

でも、発信のなかにわたしが読み取るのは、もうちょっと普遍的なところである。例えば迷い、焦りをにおわすのような書き込みには、まじめな、人生のきしみのようなキーワードをよく見つける。ああ、世間を構成する老若男女のうち、若い人はこんな風に今を感じているんだと、わたしはむしろとても明るくイメージすることも少なくない。そんな中には、林と付き合うことができれば、自然と解決できるのにな、と思うこともあるのです。(やっと、本題に来た!)

随分手前味噌のイントロになりましたが、今、わたしのフィールドは、和みのプロフィールとしては一番いい顔を見せているといえます。気温も暑くなく寒くなく、見通しがよく明るく、気分を高揚させる。なんと言っても、柔らかいコナラの緑が心に沁みる。

そんな中、昨日は今年初めてフットパスの刈り払いをした。手を入れなければ藪になってしまう恐怖&プレッシャー。追われつつ、仕方なく汗を流し、終わって深い満足を得て、おまけにスケールは小さいけれど快適な景観を得る。風土の神様がどこか喜んでくれているような感覚にたどり着くのである。

こんな風に、気ぜわしい週末がどっこい反転してハッピーな時間になる幸運は、できればおすそ分けしたいところだけど、これはやっぱり持ち場持ち場、おのおのの居場所で探すしかない。問題は身近な林を感じ取る「まなざし」があるかどうかの一点にたどり着く。
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山菜を食する安堵のこころ  

季節のものを食する楽しみというのは格別です。

自分が住んでいる土地については、加齢とともに土地の意志というのか氏神様の気持ちというのか、そんな不思議な摂理によって土地とか風土が運営されていると自然に思うようになり、「食をいただく」という敬虔さが生まれてきます。

それはまるで、いずれはこの土地に骨を埋めさせてもらうことのお触れのような心の変化であり、前裁きみたいなものに見える。だから、地面からむくむくと湧くように生まれる植物を「山菜」として、海や川からとれるものも元気をつける「ごちそう」として真剣に頂くわけです。

ロシア産、ノルウェー産の海産物も、どこかでとれたスーパーの野菜ももちろん食卓に上りますが、「真剣な」感動とはちょっと違うものがあります。そう、生まれた素性のわかるものは感動と、ちょっぴり殺生の苦みがついてくる…。

今年の山菜は順調に頂いてきました。フキノトウに始まり、ヤマワサビ、コゴミ、フキ、ギョウジャニンニク、アズキナ、シドケ、ウド、ミツバ。これから、ショウマ、コシアブラ、タラノメ、ワラビ。いずれも林などに出かけたときに少量摘んできて1、2回、残さず頂いた。

自然から気をもらうことを総じて気功というとするなら、山菜など土地のものを真剣に頂くことは、土から口を通してもらう気も、気功であるわけですね。養生が人生の目的ではないにしても、土とともに、土地とともに
日々があるという安心感は代え難い幸せを運んできます。
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