「森と健康」では薄っぺらすぎる  林とこころ


先日、「北の森林を活用した健康づくり」というテーマで書くようにというリクエストがありました。しかしわたしはこの手の標題にほとんど関心が薄くむしろちょっとしたアレルギーすらもっています。ひとつは、今や「森と健康」のくくりが「山火事注意」とか「自然を大切にしよう」というお題目のようなとらえ方ほどの意味発信性しか持たず、かつ、森を健康づくりのために利用する、という発想が、森や林の存在をとても矮小化するものであるばかりか、名のある団体がキャンペーンのように流すことで、森や林の実像を故意に誤らせる危険性も持っているからです。

 こんな思いから、「林を独りで歩き大木に触れる」へ勝手に変えさせてもらいました。風変わりな言い方をすれば、健康というのは、「自分のからだという“自然”を活用する」自覚がカギであり、実のところ、自分のからだを自然の一部ととらえることが出来るようになるために、わたしたちは森や林に出向くのだ、と考えるのです。

 人けない森や林でいささかモノノケにおびえ、畏れながら、全身全霊を身辺に向ける臆病な自分に気づき、ある時は、何十年、何百年も生きてきた大木にスピリチャリティを感じるような経験もあることでしょう。人々を招く森づくりに励もうとするなら、そこで恐ろしさを演出している木々の混み具合や見通し、暗さなどを改善してあげるのが務めだといえます。

 その森づくりでは、人々が入りやすい、たびたび通いたくなる森や林を、巡るフットパスを含めてどう作り上げるか。これはその土地土地固有の命題であり、作り手の全力量が問われるところですが、そうした林を独りで歩いて大木に触れたりする折々に、わたしたちは自分と森羅万象のつながりにふと気づくことが多くなるはずです。そこはもう、健康づくりなどと呼ばれる平板な薄っぺらい世界よりむしろ、現代におけるわたしたちの生き方にがっぷり組み合うものではないのか。都市の魔力にはまって、人は森や林という自然を身の回りから排除したちょうどそのときに、自分の身体こそ自然だったという悟性も捨
ててしまった…。

その心身とスピリチャルな健やかさの原点に出会うために、もう一度森に行こう…。これがわたしの、2007年冒頭のささやかな提案であります。

そのために、「林を独りで歩き、大木に触れる」。これいつもの提案です。
0

サクラとオジロワシ  土地の魂

今、公園などで桜の枝の剪定が行われています。
枝を見るとぷりぷりのつぼみが、おいしそうで、
「活けてみて」といいます(ように見えました)。

で、大き目の花瓶に。一足早い春がくるか…。


昨日、山仕事の帰り、勇払川の上空に大き目のワシ。
よくみるとオジロワシでした。このところ、ツグミも
ヒヨドリもヒレンジャクなども、ひょっとして
スズメよりずっと多い。

ああ、自然王国。こういう季節の中で生きている幸せ。クリックすると元のサイズで表示します
0




AutoPage最新お知らせ