日本人の濃すぎる関係  家族

香山リカさんの「親子という病」はなかなか考えされた力作でした。
どこかでだれかの家庭という病理、という言葉も見たことがありますが、推測するにかなり近似した意図の表現かと思われますね。思い込みに近い予定調和の幻想からさまざまの悲劇がある…。著作はそこをえぐります。

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…たとえばそれが亡くなった夫からのメッセージであれば、そこで気持ちの区切りをつけてまた新しい恋を探すきっかけにもなるのだが、親子関係の場合、「次」がないからだ。いったん、「和解できた」と思っても、またすぐに「じゃ、あのとき母さんはどうしてあんなこと、言ったのよ」と次の疑問が湧いてくる。そうなれば、「どれもこれもすべて、あなたの幸せのためです」といった大雑把な霊能者の言葉では、到底、なっとくできなくなってくる。そういう意味では、まさに、「死んでも治らない病、それが親子」ということになる。

では、どうすればいいのだろう。「親子関係は病であり、治癒は不可能だ」ともうあきらめて、誰もが粛々とこの病原菌に感染して、あとはじわじわと進行し、症状が重くなるのを受け入れながら、一生が終わるのを待つしかないのだろうか。先にも行ったように、子の病に関する限り、それしかない、としか言いようがない。

(酸欠状態の密室化した家庭での閉塞状況=中見出し take)

しかし、ここで考え方を少し変えてみよう。「親子という病」は致死的な病ではあるが、わたしたちは何もそれにだけかかずらわって一生を送らなくても良いのである。

この病を重症化させる要因のひとつに、家族を密室化し、そこに渦巻く感情がより濃くなるということがある。先にも述べたように、夫婦と未成熟な子供によって構成される核家族は、若いカップルが望んで実現された形態であると同時に、近代社会がそれを維持、発展させるために要請してできあがったスタイルである。しかし、それは家族ひとりひとりの役割を重いものとし、それぞれが「世界にふたりといない子の家の父親」「この世にたった一人の母親」など交換のきかない存在になりすぎたために、逆に感情のもつれ、ゆがみが生じる結果となった。

そうやって家庭がいったん息が詰まる場になると、有効な解決策も見出せないまま、「いっそのこと、全員を消滅させるしかない」といった極端な考えにまで発展してしまうことがある。…
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濃すぎる関係は息が詰まる。若者は家を出るように、古来、東西の習慣は言い伝えましたが、まさにそこに出くわします。そうして、濃すぎる関係の過熱に起因する悲劇から避難する。そのために、今必要なことは他人や社会に関心のフォーカスを向けることではないか…。

家族の関係のトラウマや、その解決に安易に逃げ込んだ狭義のスピリチャリティの反映を見てきた香山さんのえぐり方は、自殺しないで皆殺しに向かう連続する「病理=謎」にかなり肉薄した意欲作でした。
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