パワースポット  林とこころ

京都で所用の帰途、伊勢神宮に寄りました。
パワースポットにとても関心がある、と公言しているわたしに、
ある人の薦めは「月夜見宮」(つきよみのみや)。外宮、内宮を巡ったあとに
行って見ました。

住宅地の小さな敷地なのに、一歩足を踏むこむとそこは静謐の別世界で、
霊力の漲るところでした。自身がみるみる浄められていくような感覚。
そしてわたしのマザーツリーであるクスノキの大木に、触ったりながめたり
廻ったり。

翌朝、もう一度お参りして北海道への帰途に着きました。
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妖艶なサクラ咲く  土地の魂

緑化木の剪定でいらなくなったというサクラの枝先をもらって先週活けたサクラが、昨日の朝、八部咲きになりました。朝まだきの光の中で、その淡い、上品な色に見惚れます。クリックすると元のサイズで表示します
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真夜中の白鳥  土地の魂

彼岸の休日の夕方、カエデの樹液を4リットル、季節の恵みとして
また受け取り(感謝)、不要になった樹液採取用の穴をふさぎました。

早春をことほぐもうひとつの祭りはマガンたちのもどり編隊のパノラマ。
ウトナイを根城にした彼らは、夕方、採餌場の鵡川・厚真の水田から
群れごと、大編隊の波となって湖に戻ってくる…。

夕方5時過ぎ、植苗、柏原など観察地のめぼしい所をめぐっても
ちょぼちょぼ。とうとう湖に。身じろぎもせず、鼻水たらして1時間、
日が沈んでからピークがきましたが、感動するパノラマでは
ありませんでした。

もう、マガンたちは美唄の宮島沼に移動したようです。
ピークを過ぎることのさびしさは、どれもごこか共通したムードが
あります。祭りに間に合わなかった悔しさも。…



早春の祭りの盛り上がりを欠いてしまった、と多少残念な気分を
ひきずっておりました。
と、昨夜零時前、玄関の椅子で冷気を浴びているさなか、
「コー、コー」
「コー、、コー」。

見上げると、闇夜にまっしろに浮かぶ白鳥の
群れでした。無風の空を、うつくしい「へ」の字を描いて。

これで心置きなく、春に向かうことができます。(^_^)vクリックすると元のサイズで表示します
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サクラのつぼみ  北海道と自然

ぷっくらと膨らんだサクラの枝を一本入手したのでいくつかのコップに差し
家のあちこちに置きました。

ホテルの庭木の剪定したものだとか。ぷりぷりしてすごいのです。
昨年、一昨年はそういえば、コブシの枝をさして一足先に見事咲かせて
楽しんだことを思い出します。

外へ一歩も出なかった今日、町内を散歩しようと玄関をでると、おやまあ、
ベランダには最後の名残雪。春からの主役であるベランダの椅子と
草取りの鎌を並べて、カシャ。

町内のスケートリンクは、なんとも間の抜けた施設にみえてきました。
これでもまだ新緑まで二カ月かかります。正直、遠い…(-_-;)クリックすると元のサイズで表示します
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春祭り  土地の魂

今日の苫小牧の天候は、「早春の不機嫌」。雨、あられ、強風あり。

そんな中、幼児含む20人ほどが雑木林を来訪。
メープル(イタヤカエデ)の樹液を、水代わりに飲んで、
昨年のメープルシロップでホットケーキを食べました。

メモリアルな時間帯は、かならず天候が治まるといういつものラッキー
パターンですが、硬雪がズボズボぬかるという、3月のこの時期は実に
消耗なものです。この変な時期に来る面々はアウトドアの達人級です
ので心配もしませんが、そんなシーンのなか、立ちっぱなしの雪上昼食
は足の裏から冷えます。それでもみなさん格別のいい笑顔でした。

帰途、小鳥を手に乗せる場では童心のように感動した模様。
子供たち、あるいは子供のような大人は、ちょっとその場を去りがたかったようです。

これで2009年のまったく個人的なイベント・春祭りは無事終わった
ような気分になりました。濃厚な季節感をシェアする…、これも実に
いいものです。クリックすると元のサイズで表示します
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喜怒哀楽の林レポート  林とこころ

「林のレポート」に喜怒哀楽でつながる林の報告を挙げました。正式なタイトルは、「身近な林の印象表現に関するアンケート調査結果」。昨年11月末の「こころの森フォーラム」の際にいただいたアンケートをまとめたものです。

人はかくも情緒的に林をとらえるのか、そして豊かなボキャブラリー。この結果をみながら、わたしたちはもしかすると情緒で林や自然を見る感性が何らかの理由で封印させられているのではないか、と思うほどです。

レポートのpdfはこちら
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/210309joucho-report.pdf

ホームページはここ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/

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ラフカディオ・ハーンにおける旅  土地の魂

2月28日の日記(別のSNS)に「大学というもの」を書きましたが、その元になったのが北大で行われた観光創造フォーラム。4回目となった今回のフォーラムの基調講演は、退官するO教授(地域文化論)がとても興味深い最終講義(↑タイトル)をされました。先生のメモからもう一度その文脈をなぞってみます。副題は「観光創造を考えるためのひとつの原石として」。

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なぜラフカディオ・ハーン(LH)なのか

日本に帰化し小泉八雲となったLHは日本の文化地層の深い理解者とされますが、「彼は旅人中の旅人であった」。旅先で吸収した世界中の文化地層が渾然となって渦巻いているのは、今日のクレオール思想(一神教的な単一原理に変る文化の異種混交の思想)の先駆的体現者だった、とまず位置づけます。

そして彼は西洋的世界基準とは別の基準を提出したと。さらに彼は旅先で、必ず新たな世界を創造し、それまでとは異なる自己を創造している、そのLH的体験とはなにか。教授はそこに、北大の観光学高等研究センターが取り組んでいる観光創造の原石が豊かに眠っている、と始めます。(格調高いなあ、と感動)

LH的体験

ここからいきなり、わたしが最も関心を持つ核心部に入ります。教授によれば、LHは新たな土地に行くと、必ずその土地の養分を深部から吸い込んで、その土地の人間も気づかないでいた新たな世界を創造し、そのことを通して自己をも再創造していったといいます。LH的体験の特徴とは、次のふたつ。
@その土地の表面をなぞるのではなくその土地を一気に内部から受容しつつその実、内部へと受容される
ALHはその地の「土地の精」を直感し、それと共鳴し、交感し、(心身ともに)交わる
(土地の精とはその土地の魂、霊であり、そこの生の根源に宿る霊的な力、ゲニウス・ロキと呼ばれる。わたしは産土(うぶすな)と呼んできました。)

ちなみに教授は、土地の資源を探るのならば、それはジーニアスまで降りるべきだというような意味のことを言ったような気がします。実はこれが、わたしが数年、観光と風土を間にしてつきあってきた結論でもあったのです。そういう意味でいきなり核心部分だったのです。

話は戻ってLHの日本での体験の基層になっているのが、西インド諸島のマルチニックなんだそうです。大平先生は仏文?の先生でマルチニックは旧仏領。先生も言ったことがあるとかで画像を見せてもらいましたが、なんか、インドネシアのバリ島のようにも見えました。実はこのマルチニックは土地の精が豊穣に宿る世界有数の地である点で、日本とつながっているのだそうです。(どうです、アヤシイでしょう)

LHとマルチニック

マルチニック島はカリブの島嶼のリングの一角で広さは沖縄本島ほど、人口は40万人。17世紀にフランス領となり、当時、英仏西の攻撃で先住民は全滅、そののち、インドや中国など各地から移住がおこり大混血が開始。こうした歴史的文化的背景は、文化の<異種混交>を掲げる近年のクレオール思想の母胎になっているのだと。

LHにとってマルチニックでの体験は、彼の日本での体験の母胎であったと述べますが、その共通基盤というのは、「土地の精」「一神教的世界に代わる生のあり方」。人間が自然を支配し、神がその全体を支配する一神教的世界に対し、マルチニックや日本は、生命とは宇宙的流動的世界であり「すべてはつながっている」。そしてそれをつなげているのが「霊」だというのです。「つながる」は近年の重要なキーワードですが、つなげているのが霊だという表現には初めて出くわしました。しかし、何となくわかるような気がします。霊とは先祖のことだ、という表現に近いのですが、微妙なところです。

LHはそのつながりをよく知るためにギリシャ神話をはじめとする世界の民間伝承を調べ、マルチニックの民話、日本のアニミズムなどを探求したようです。そうして一神教世界からの脱出を図る、その行程がLHの旅だったと結論し、そうすることで西洋的世界基準のオルタナティブを提言したのだ、と。

そして、ここも興味深いのですがこのことでLHは当時の日本の西洋化を批判したのでした。そこで教授は一つの提案をします。「われわれとしては、これを、中国(東洋)文化圏とアニミズム的世界との習合・雑種(ハイブリッド)文化(=クレオール)であった日本の、さらなるクレオール化と考える方が生産的でないか」。

教授のメモの最後は、LHの文化観は、文化A、文化Bの間を生きる(それが人間)ことによって、AでもなくBでもなく、双方を内包しつつ、かつそれらとは別のCを生み出すこと、それがが創造だと考えていた、と結びます。それは単なる「混合」でなく「化合」だと。

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メモをなぞった走り書きに若干コメントと感想を入れましたのでこれ以上は書きませんが、この講義で提示して見せているのは、旅とは土地の精とのつながりであり、21世紀の観光とはクレオール的なわくぐみの組み替えを指すのだということのようです。

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環境にやさしいフリをする  北海道と自然

H大の社会学のK教授から、電話とファックスをもらいました。送られてきたファックスは先生が西日本新聞のコラム「潮流」に寄稿したもの。ちょっと固い話ですが、身近な環境解説にあたります。以下、わたしtakeの感想も入れた概略です。(^_^;)


コラムは「3Rと地デジ−−−二重規範を解消しよう」というタイトルで、内容は、環境省が強調している3R(reduce,reuse,recycle )は、こと地上デジタル放送については、環境省の言い分と、地デジを推進する総務省では、同じ日本なのに、言ってることがあべこべじゃないか、ということ。

2011年にアナログ電波が止まるのであれば、現在アナログのままの5000万台のTVが廃棄物に変貌するわけで、排気量の減少と整合しないし、テレビ難民さえ生まれる。一台40万円の強制的個人負担も不適正で、この不整合を引き起こす政府の2重規範には環境省、総務省も沈黙したままで、政治家の大半も無言…。

そして、わたしtakeなどは「いずれ買わざるを得ないから」と液晶テレビに買い換えてしまいましたが、施策は、目標の2011年度からさらに少なくとも5年は延期して、使えるようにしたようです。どうも、その理由は米国の貧困層がついて行けないために米国と足並みが合わないからということも関連がありそうです。多額の出費だから本来は日本だって同じかも知れません。

K先生は、それが、日本型 we can change だ、と痛烈に皮肉って、いつもながら厳しい言葉で事象をえぐります。そして「国民のためのこの柔軟性が、日本での変化を促進させる起爆剤になることを政治は理解できるだろうか」と書きます。

ちまたではエコ商品が氾濫し、グリーンという言葉もあらゆるところにくっついて多用されている。そして、流行語になだれ込む日本人のくせが、「エコ」や「グリーン」にあらわれている、たとえばグリーンは「グリーンワッシュ」(環境にやさしいふりをする)のに過ぎないのではないかと、推論しました。

(このあたりはわたしtakeが「自然保護」に抱いていたものとある意味同じであり、また、「森林」だったり「市民との協働」だったりします。)

そしてコラムの結論。「日本型の "we can change"は、環境をめぐる政府の二重規範を解消して、無意味な「エコ」や何も示さない「グリーン」への過剰な思い入れを払拭するところから始めたい。」


大量の情報と素早い動きのなかでニュースの本質を正しく鋭くえぐるのはもう至難の業ですから、ボンヤリしたわたしはK先生の視点にはいつも注目してしまいます。(社会調査や少子化対策などが専門で、ソーシャルキャピタルなどの論客でもある先生は昨年、「地球温暖化と知識社会学」という小冊子を洞爺湖サミットの直前に出しています。)


みなさんはどうお考えになるでしょうか。
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