アジールのような没我空間  林とこころ

下のような文を書いているうちに、そんな没我、いや没社会の状況
を創るのはまさにアジールではないか、などと妄想が湧いてきました。いや、
逃げではないのです。むしろ一般の方が気にならない「醜」の世界のケアなんですが、
その改変の現実が我と社会を忘れさせる…。

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■ホームページのトップで

「(12/24は)山仕事で一日を終えましたが、山仕事というのはそれだけでも満足する不思議な作業で、言ってみれば、ドツボにはまるようなもの、と思う。他の事が見えない洞穴、軽い浦島太郎状態。今年は311の大震災があり、放射能汚染がひろがり、政治も迷走、世界も事件、異変がタップリ、経済グラグラという年でしたが、そんなことをカラッと忘れさせてしまう。チェンソーを置いたこれから数日、世界と友人と地域と親戚のことなども、ゆっくり捉まえなおそう。」

■雑木林だより70で

「ずっと独りで山仕事をしてきたから、安全にはいつも細心の注意を払っていたがそれだけでは臆病にもなりかねない。お祈りのひとつもしてエイヤッと奮い立つことも少なくないが、実はそこで必要なのは祈りではなく、経験と知識に裏打ちされた技術だとは知りつつ、。それがなかなかで、進歩がとまったままだ。」

「独りの山仕事を思い出すと、その時、人は詩人になるのではないかと思う。五感がフル回転する。二人以上はそこにタレント風味が混じってくる。そうして大勢の時は詩人は消えてタレント性だけが残るか、あるいは「ひきこもり」になる。

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没我や没社会の気分になるのは、何かに打ち込んでいるとき、大方の人が程度の差こそあれ
経験するものです。それをあえて林のアジールとして再認識したいのか、自分でもよくは
わからないのですが、少なくとも、時間だけでなく、それは広い空間である、ということしか今はいえません。そしてその空間は誰でも受け入れ、やりようによっては我を忘れる、ではなく「我と出会う」、そういう空間だと言うことのようです。

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雑木林&庭づくり研究室
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NPO法人苫東環境コモンズ
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里山の底力をみる  林とこころ

3年前に、精神科医のTさんと始めたこのフォーラム11/26が、なんと6回目になりました。フォーラムの初回からのテーマを列記しますと、
■第1回  2008/11/29 sat @北大苫小牧研究林
『身近な森の中に自分の居場所がある』
■第2回  2009/06/22 sat @北大研究林
『林と繋がるメソッドを学ぶ』
■第3回  2009/11/08 sun @錦大沼
『山・森・湖の「息」を聴く』
■第4回 2010/07/03  @白老ポロト休養林
『花鳥風月に白老の「気」を探して』
■第5回 2010/11/06 @安平町大島山林
『神々の棲む林が子供のこころ&体を育む』

となります。眺めてみると、一見して普段言い慣わされた科学的な言葉遣いから、ちょっと逸脱しているのを感じられるかも知れません。が、それこそ、わたし達がもっとも目指したかった核心部になります。つまり、森林とのメンタルなつきあいを柱に、感性をフルに動かしてつきあおうとか、自然が発する気と自分の気を同期させるにはどうするのかとか、花鳥風月を情緒で感じ取ろうとか、ともすると霊感まで援用するようなとにかく森林や自然を既成のオブラートではなく、感覚を開放してピカピカの感性で向かい合ってみよう、そんなメッセージをずっと出し続けてきたつもりです。

 今回11/26は、今までのような、その道のメンターをお呼びする方法を止めました。講演のような形は、人と森林の橋渡し役が介在し、結局「ガラス窓の外の森」とつきあうことになりかねません。講演ではなくて、参加者お互いが、雑木林で感じたことをつぶやきのようにトークする、言い換えれば、雑木林と里山的雰囲気そのものを主役としたライブ、そこで直に感じる接触感が大事ではないのか。どうもそれで十分ではないのか、と個人的に思い始めていたのでした。

そこで出てきたのがこのようなシナリオ。『〜 歩く、風の音を聞く、焚き火する、食べる… 〜 ただただ、林を感じる新里山の過ごし方』でした。古い時代のよき想い出として語られる「里山」や「雑木林」とは、実際、どんな風情でどんな風に営まれていたのか。それが、わたしたちのこころや体に知らず知らずにどんな風に効いていたのか…。今回のフォーラムは、その環境にただ身を置いてみること、そこにフォーカスをあてることにしたのでした。

定員を10名近くオーバーした総勢30名のいぶりの雑木林ライフは、そんな思いを下地にして、苫東のわたしたちNPOのフィールドである小屋周辺で展開されました。ゆるやかに集合(10時ころ)して、適当に三々五々散会するという風にしましたところ、乳児を含む5人家族のIさんは、余市から11時頃にみえました。そのころは、おおかたが散策から戻り、札幌からの参加者を含めもう小屋周辺のあちこちで、思い思いの手仕事とおしゃべりが始まっていました。そんなゆるさがここのいつもの流儀です。
今回は、T先生とわたしというフォーラム実行委員会(いつもたった二人)に、NPOの3人に応援を頼みガイド兼ホスト役になってもらい、下記の8つの過ごし方メニューを用意しました。

 ■フットパス散策(草苅)
 ■枝オブジェ制作(inaba)
 ■薪割り、薪積み(oyama)
 ■森療時間(瀧澤)
 ■落ち葉のプール(安保)
 ■焚き火(草苅)
 ■薪ピザ(inaba、草苅)
 ■枝クラフト(oyama)

 で、雑木林ライブはどうだったのでしょうか。アンケートなどをしなかったので真相はわかりませんが、聞こえてきた感想を総合すると、「十分楽しめた」「葉っぱの落ちた雑木林の魅力を発見した」「里山の潜在力を感じた」など。主催者としてふり返れば、NPOになる前も含めてこの一帯はこれまで多くの子供を受け入れてきましたが、子供たちと雑木林が本来、こんなに親密だったかと改めて思わせる光景が一杯でした。枝を削るクラフトに没頭する子供には感動しましたが、その子供にカッターを黙って使わせてくれる母親も立派です。帰り際、その子はきれいに皮をむいた枝を手に持っていました。以前、5歳ほどの女の子がアマガエルを引き裂く(ムゴイ!)のを停めないでやらせていたお母さんもおいででした。まさに、そんなながれがあちこちで進んでいきました。落ち葉のプール、おがくずのシャーベット、木登りなど。

子供たちだけではなく、普段、もっと緊張感のある大人も、林の中では目じりが下がっていました。こころメーター(アミラーゼモニター)などつかわずとも、入林前と1時間後の顔写真を撮って目尻の下がり工合など表情を比較するという原始的な比較方法も面白いと思わせます。一方、男女を問わず、薪割りは見てる方が実は冷や冷やです。そんなこんな、里山的暮らしがたくさんの手仕事を待っている、その真ん中で里山を疑似体験した形になります。それは「身近で快適な雑木林」「手自然の里山的雰囲気」であり、そして迎える林と人々との間に誕生する「つながるスポット」のようなものがありました。

もういちど、それでどうだったのでしょうか。
ケアを開始して20年ほどになるこの雑木林では、里山の雰囲気が主役になれること、講師がいらない自然体験であること、そして忘れてはならない大事なこと、そのひとつは、子供達は里山的素材の中で天衣無縫の振る舞いをすることです。森の幼稚園をみた時の感動とそっくりと言って良いかもしれません。「そうか、子供は里山を待っていたんだ!」。そんな気すらします。

そしてもうひとつ大事なことは「焚き火」。陰の主役は焚き火になるのではないか、と予想していましたが、案の定、焚き火はにわか作りコミュニティのずっと中心でした。そこはたいてい、人生の知恵袋である長老達の居場所で、若い者が外遊しては戻ってくるたまり場です。

これらをトータルしてふり返ってみるに、雑木林そのものをメンターに切り替えた今回のフォーラムは、わたしたちの里山日常そのものが人びとに提供できる(もてなすことができる)潜在的で魅力的な雰囲気を持っている場であることをはっきり意識することができました。また「こころのフォーラム」はこれからこのパターンを基本にしよう、という決心もつきました。そういう意味で、2011年11月26日は「新しい里山記念日」になったように思います。あえて次の一手を述べさせてもらえば、この場を生み出すのは、人のケアであること、そして地域の林は、誰の所有であれ、大なり小なり人のケアを待っていること、そして「業」が成り立たないのであれば、「新しい公」の旗を挙げるなどして住民自らが担い手になるしかない、ということです。

加えて、都市にあって身近に作られた都市公園ではなく、より自然度が高くかつ安全な里山的自然がよりリラックスができ老若男女の心身の健康にとてもいいから、これからの高齢社会における意味はそれだけでも大きい意味を持つはずです。さらに生意気なことを言えば、そうして地域に軸足がつながると、自分がグローバリゼーションの対極に位置しているのではないかという不思議な幸福感に気付きます。地域に住むプライドというものがそこで滲(にじ)んでくる、とわたしは考えるようなりました。 クリックすると元のサイズで表示します
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森林と人の時間スケール  林とこころ

先週中日は、年休をとってNPOの立場でコモンズフィールドや造林の現場を
土地所有者と巡りました。

それらはわたしが30年前に手がけた、台風の復旧造林地などで、当時、台風
被害は150haほどありました。それを激甚災害の指定を受け、補助金で
風倒木処理から造林まで行ったのでした。

現場検討というのは、それらの造林地をどう手入れするのか、という方針について
の意見交換です。保安林のために間伐できる割合は20%なのでもとよりさほど
選択肢があるわけではないのですが、収穫と将来の姿のイメージは大事です。


巡り終わってからシミジミ気付きました。わたしはあれから、サラリーマン
生活の濃厚な部分をくぐり、還暦を迎え、やがてリタイヤするところ
ですが、樹木等は、まさにこれからゆっくり成人を迎えます。手入れ不足で、成長が
止まったままのアカエゾマツも多かった。わたしの数十年など、まるで目じゃない、
という感じ。

この時間スケールの違いは、あらためて驚きです。1年2年のタームで森林を見ていても、
森林の流れは見えてこない。今回のように30年というような区切でみてはじめて林の
進もうとしている将来像が見えてきます。こちら側にそのような尺度が埋め込まれて
いないと林の相手ができません。

そしてサラリーマン生活で見届けることのできる森林は1世代のそのまた一部だけで、
これを継続して誰かが交代でケアするという仕組みがどうしても必要なわけです。
これが上手く伝達できるのか。人間の生きている間が短いのか、樹木が長いのか、
ちょっと立ち止まったことでした。

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