森林の懐の深さと誤謬と不作為  社会


先週末、10年前に開催された森林フォーラムの同窓会がありました。その席でなんとなく
標題のような乱暴な話を口走っていまいました。しかし、思いは十分伝える時間も
整理も抽象化もできていませんでした。それで、その乱暴な話の筋(試論)をもう一度
なぞって記録しておこうと思った次第。以下。

というのも、森林林業の再生を今さらながら声高に取り組まざるを得ない現状が
象徴するように、造林の技術はある程度確立されたと見える一方で、地元材(少なくとも
北海道)で家を建てることは難しいし、里山や沿道は決して入りたくなるような林況でない。
むしろ荒れ放題で醜悪で、もっぱら木材は輸入に頼る。当然、業としての林業はGDP比で
0.1%を下回る。しかし、行政は施策をどんどん打っているかに見えて、「実」がない。
木材の生産を止めて公益的機能と環境教育に軸足を置いてしまった…。早い話が森林の扱い
論議ばかりが栄えて、林業は明らかに失敗したのではないか。

で、森林林業は構造的に間違った組み立てになっているのではないか。要するに、森林の扱いや業は根本的に間違っていたのではないのか。ほとんど雇用効果もないといわれるが、しかし、しっかり雇用している関連部門が実はあった。行政と研究機関である。ここはしっかり、森林で食っている。

そうなっている要因は、森林の多面性と一口に言えるのではないか。懐が深いのである。森林の外部性に臨機応変に寄りかかるのである。当面、材は安いところから輸入すればいいし、幸い、今の日本では森林は放置していてもなくはならない。公益的機能という存在理由もとても便利である。このバランスはいくらでもいじることができる。

森林はもともとそういうものであったと思えば割り切れる。森林地帯を拓いて宅地を造り不動産を生み出してきたことが、益々森林の経済評価を替え本来の生産物の経済循環から外れてきた。しかし、誰も困らない。中国資本が日本の森林を投資先と考え、余ったマネーが水資源と森林資源を虎視眈々と狙っても、まあいいじゃないか、仕方ないじゃないかと言う声は少なくない。

しかし、あまり困る人はいない。

〜〜〜〜〜〜〜

言ってしまってから、暴論だなあ、と思った。その一方で、そうか、行政と研究機関は森林の懐深さにおんぶしていたのかもしれないなあ、と妙にわかったような気分になった。林業に携わる民間が、市場についていけなかったのが悪い、ビジネス条件が最初から悪すぎたんだ、などという反論もあろうが、それでは業を誘導する施策はどうだったのか、となるだろう。

司馬遼太郎の「土地と日本人」を読みながら、このなんとも出口のない曖昧感を、一種の「不作為」としてちょっとメモしておこうと思った。


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玄有宗久訳の『方丈記』  社会

北海道の地域SNS実験サイト「どっとねっと」の5周年を記念する座談会1/22では、ローカルな現実社会に軸足をおいて、つながりと理解を深めることと、グラーバルなソーシャルメディア活用は二者択一ではなく相互補完的ではないかという議論がでました。その土地その土地の現実社会こそもっと向き合って深めたい、という意見もでました。

この話を伺いながらわたしは、玄有宗久氏の新刊「無常という力」を思い出しました。玄有さんは福島県三春町に居を構え、ナニカで読んだところでは、たしか父親の介護をしながらここ三春で全うする、というような言明をし居残ったように記憶しています。

その玄有さんはうちひしがれた原発後の日々に、ひょんなことから鴨長明の「方丈記」を読みます。そしてこの本の後半に自ら訳した「方丈記」を載せています。800年前に書かれた方丈記は、意外なことに400字詰め原稿用紙でわずか25枚という実に簡素な作品。現代語訳の巧みさの故か、遙か昔の天災や人災が、今そこで起きているかのような錯覚を覚えます。

玄有さんは、福島の住まいの原発後と鴨長明が描く800年前の火事や飢饉や地震という災害を重ね合わせ、今昔の無常を語り、災害と戦乱について時空を越えた知恵と覚悟について、行ったり来たりしながら書いています。言葉は平易でありながら、しかし理解はかなり難しい。

玄有さんが言いたい主題は、グローバルな市場に一本化されないコンパクトな自治ではないかと思います。もっとコンパクトな暮らしをすればいい、人間は本来コンパクトな暮らしをしたいのだ、と述べます。「そんなに甘くはない、逆戻りはできない」と言う声が聞こえてきそうですが、もうコンパクトな自治を考え始める時期かもしれない、という理解はわたしにも受け入れられます。

話はもどって、地域SNSはどこへいくのか、どのようなソーシャルメディアを選択するのか、というのが座談会の大事なテーマでしたが、その答えとしては、洪水のように流れて消費される大量の人とのつながりと情報のもう一方に、地域という現実のなかで関係を深めるあり方、無常の地域社会の現実を突き抜けていく生き方というのがある、という少数意見がグググともたげてきました。大震災と原発事故が、そろそろめざめよ、というなんらかの問題提起だとする意見は、実はいろいろな人が言っていたのを思い出します。

理解は広さを求めると自ずと深くなる、という議論もありました。しかし、ものの理解と関係性は同列には語れないでしょう。事実、人の話を聞く、地域の課題に取り組んで解決の道を探る、などという営みは、そこに腰を落ち着けて深掘りしなければ始まらない。

「すべてを受け入れて揺らぎ続ける。それが自由になること、強くなること、そして未来を楽しむことである」とあります。時には引きこもって折に触れ反芻するしかありません。クリックすると元のサイズで表示します
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クワの木の気  林とこころ

掌に樹木の気を感じるようになりたい、という一念で、随分いろいろな樹木に
手をかざしていた頃がありました。最初はまったく何も感じることができません
でしたが、やがて、ある樹種に限って感じるものがあり、同時に自分で掌を
合わせるようにすると、ちいさなゴムマリのようなものをはっきり感じるように
なりました。

ただ掌に気のようなものを感じるのは、どういうわけか、ヤマグワ、ニセカシヤという
ような、樹木としてはあまり重宝がられないものばかりでした。これとカラマツ。
このほか、本州では、ケヤキとクスノキでした。もっといろいろチャレンジすれば
もっとあるかもしれません。特にケヤキはムクの板に寝そべると呼吸が深くなる
ことを発見しました。

ところで、なぜ、ヤマグワなのか、まったく想像もつきませんでした。
が、玄有宗久氏の「無常という力」を読んでいましたらヒントがありました。
鴨長明が後鳥羽上皇にも認められるほどの琵琶の腕前だった、と言うその下り。

「琵琶という楽器は主に桑の木で作られます。お釈迦様がお座りになった菩提樹も
 桑科の木です。いい「気」を発している樹木だと言われています。…」

なるほど、そうでしたか。

なんだか、10年以上も前の話で、かつ、誰にもわかってもらえそうな話でないので、
そっと胸にしまっていたことなのですが、やはりうれしい。もっと探してみることに
します。もちろん、わたしの「てかざし」で、なにか感じて頂くこともできるよう
ですから、こちらの能力開発もあわせて。(笑い

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地域SNSとfacebook  社会

地域の課題解決とコミュニケーションのために、とスタートしたmixi型の地域SNS「どっとねっと」が昨年9月で5周年になり、越し方を振り返ってみることの多いこの頃。
http://www.hokkaido-sns.net/OpenPNE2/public_html/

mixiが2400万人の客数を誇ったのはいつだったでしょうか。そのあと、twitterが誕生し、facebookが今はブームで、かたやにはgoogle+があって、無料のネット会話が進んでいますが、そこではて、と考えてしまいます。

これは、ある機能の進化なのか、機能分担なのか。

実際のところ、かつて地域SNSといえば、mixi型を指していましたが、今般、行政の事業仕分けなどで予算が付かなくなり各地で官製地域SNSが廃止に追い込まれています。

地域のコミュケーションの必要性は落ちてはいないし課題解決のツールとして、mixi型はとても有用だと個人的に思っていますが、わたしを含む「どっとねっと」のメンバーも何人かは、facebookを含むほかのツールもてがけて、それぞれの特徴を駆使して自在な交流を進めています。

地域SNSの概念も、mixi型だけでなくtwitterもfacebookなども包括したもの、という拡大をみせているようです。事実上、ユーザーが多様なツールでコミュニケーションをしているわけですから、カテゴリーの変化は自明のこととなりました。

で、この先です。各種併用するのか、あるいは単一のあるもので済ますようになるのか。地域SNSの運営に関わる人舘にとって、この趨勢は見落とせない、大事な分かれ目です。しかし、まだ良くみえません。

先日、ファンが多いブロガーKさんと電話でお話したら、氏はfacebookに収束するのではないか、と見ていました。mixiの日記のような部分は、「グループ」で代用できるという考えです。また、mixi型は閉塞しかねないが、fcは、新しい関係を作りやすい、という差も明示しましたが、これはわたしも同感です。fcは関係を市場のように求めます。

それでも、わたしは、地域の課題解決のツールとしてfacebookはmixi型を代用できないと見ます。むしろ、開けっぴろげの世界は疲れます、休まりません。だから人は早晩、秘密結社を作りたがります。隠れ家といってもいいかもしれません。facebookにはこの隠れ家的な空間がありません。mixi型はしらずしらず隠れ家的な安心が満ちてきて安住してしまいます。

人は往々にして、田舎が代表する閉鎖的な、結合型の関係もどこかに残しながら生きたいのではないか、どうもそんな気がして仕方ありません。


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