自然保護運動とはなんだったのか  林とこころ

先週末の夕方、札幌駅そばのホテルで行われる集まりで短い講話を
しました。わたしが用意したタイトルは「今,改めて意味が問われる森林」。

森林の意味の移り変わりをフォローすることはわたしの若い頃からの大きな関心事なのですが、話のストーリーをここ1ヶ月ほどああでもない、こうでもないと思案しているうちにたどり着いたことはやはり次のようなことです。

英国は産業化と都市化のなかで生まれた劣悪環境を、民が切実な思いで緑で憩う権利を、それまでのコモンズ利用の復活として法律にしていった。そこには人間としての基本的な欲求として「快適さ」がある。

日本は、戦後の公害と宅地開発が大きく環境を変え、反対運動も起きたが、自然保護の運動の中にとりこまれ、メディアとアカデミズムのパフォーマンスの対象にはなっても民の緑とは直結しなかった。緑はあくまで「理論」的な「解釈」としてしか実を結ばなかった。それで今、日本人の多くは緑はなくても生きていける、と本音では思っている…。

もっと正確に言えば、なくなるまで緑への自分の欲求はみえないのではないか。その証拠に、重篤な病にとりつかれた方々は、自分の大好きな緑環境や景観を身近なところにみつけ、時々密かに訪れることも多いと聞く。そしてそこはなるほどと思える場所ばかりです。わたし自身、気が滅入るときなど、林に入ったものでした。


日本人の緑地観に今、ゆがみがないだろうか、緑地の合意形成はできていないのではないだろうか、と思うことがあり、今日はそのあたりを心身の健康と森林に結びつけてお話しする予定。

ゆがみのもととたりには、自然保護運動が内側に秘めていた革新系メディアと革新派アカデミズムの見事なタッグが見えていたように思うのです。その意味では1980年代後半の知床伐採問題を時間をおいて俯瞰する必要もあるのではないか、とつねづね思うものです。


で、図らずも入り込んでしまった穴から、這い出るのかどうか…。
講話は61歳のわたしがおそらく最年少という奇妙な集まりですが、諸先輩からきっとゆるい叱責の言葉を浴びるかもしれないと覚悟しながら、話し始めたのですが、意外にもとても暖かい賛同を
得ました。それにしても、本当に言いたかったことを言わせてもらう雰囲気というのは、タカラモノだと気づきました。本音を語って相手の本音も伺う。建設的&良心的であれば、これはこの世の表世界ではあり得ないものになりつつある。タカラモノノの意味を考えている。
雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/commons00.html
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