地方に住むとはどういうことか  林とこころ

今、地方創生が叫ばれており、専門の担当相までいる。地方は地方の努力で
活性化すべし、という国の施策である。やる気のある自治体には国の予算で
応援しよう、ということのようである。全国の自治体は27年度末まで、
総合戦略というレポートを国に提出することになっており、北海道は10月末頃、
40%が提出済みとなっていた。

わたしは、かつて国の施策の実施部隊として中間組織に身を置き
自治体と国の間の調整をした経験から、そんなことしても自治体は動かない、
いや時に動けないだろうと思う。空の上を掛け声だけが飛んでいき、仕方
なく付き合わされている、というのが実情だろう。

一見もっともな地方創生という掛け声は、実は昔からいわれてきた地域振興
とか地域おこしに同義で、それを国が音頭を取ってむし返すねらいは、別の
ところにあるのではないか、と思う。

その根拠に、この呼び声が増田寛也元総務大臣の地方消滅だったかの本で、人口減少
によって自治体がなくなるという警鐘のころに始まったことが挙げられる。
これでいけば「このままでは自治体(地方)がなくなってしまうがいいのか」という
明確なメッセージだ。

もうひとつは人口問題まで地方に対策を採れというがごとき文脈であることだ。
思うに国全体の出生率を上げるためには、フランスのように、子供を産んでも
経済的負担が増えないようないくつかの施策がサポートしないと成功しないこと
が多くの学識経験者に指摘され、近年の事実経過もその見方がただしいように
見える。

しかし地方創生の掛け声は、国がそのような子供を産むことによって人生が不利には
ならないように手立てするよ、予算を確保するよ、ということでなく、地方よ、
知恵を絞ってガンバレ、地域のアイデアを絞って出せ、といっているのである。

つまり、人口減少による地方消滅は国費の積極的利用はしないというように
見える。ねらいはそこにあるのか、と疑う。28年度の予算98兆円に占める社会保障費は
31兆円だそうだが、この増大になんとか歯止めをかけたいのはわかる。しかし、
責任転嫁では困る。優先順位をもっと見極めて見ないといけない。


ちょっと話題を変えてみよう。
自治体がなくなる、地方が消えるという背景にあることの中に、実は興味深い
現象があり、人間のサガの鏡と思える部分があって、わたしはそれを地方の魅力、
地方で生きる意味、都市では味わえない地方のライフスタイル、という点に
かなりの興味を持ってきた。社会関係資本の蓄積によって、趨勢にさおさすこともできる、
と見てきた。

地方に住むことは様々な意味で、都市の暮らしに比べ自己確立が求められ、
自覚的な選択が必要である。2年前に全道の高校生1700人余りにアンケートした
結果(未発表)を見ながら、しかし、若い人の地域への愛着や地域にとどまって仕事をし、
家庭を持ちたいという願望がとても高いことを知って正直驚いた。であれば、大人は
次世代に何を用意してあげればいいのか。

答えは28年中に刊行が予定されている出版物の全体を読みながら、改めて議論したい。
これは今もこれからも容易に結論が用意される課題ではないから、個人的には
地方で生きるライフスタイルの提案とか、問題の整理とか、そんなものに耳目を
そばだてている。


そんな折、長崎の畏友のHP「まつを」に氏の見解が述べられていた。かなり
相通じるところがあり、さすがに言葉遣いがうまく機知に富んだ切り口なので
いかに引用した。2015年2月ごろのログである。


===「まつを」さんのブログから===

なぜ都市に人口が集中するのでしょう? それは経済成長に伴い、第一次産業から、
第二次・第三次産業へとシフトしていくから。
都市化が進むと、都市では地代や家賃の劇的上昇が起こり、階級ごとの住み分けが
起こりやすいわけです。TV番組『月曜から夜ふかし』でマツコ・デラックスが地域ごとに
差別的発言を繰り返しているのはこの状況を表しています。

そんな都市を抜け出ないのはなぜでしょう。私は、よく言われるように、仕事が地方に
少ないからというだけではないと思っています。都市生活では地方での生活に比べ、
脳の多面的利用が少ないように感じています。たとえば植物の名前や特性を知らないことや、
自然との接し方、食の多面性への理解、DIY的技能ばかりでなく、他者や地域コミュニティ
との接し方まで、脳の領域を使わないままに長年経過してしまっています。地方は縁(えん)
の世界であり、自然を活用していく世界です。こうして都市生活者は適用性に不安を
覚えられる方が多いのではないかと思っています。

(上記記事に関わりのある記事を2月14日に次のように書いています。)

アメリカの科学雑誌ディスカバーに発表された研究によると、人類の脳の大きさは
過去3万年で縮小しているとのこと。発掘される頭がい骨を測定すると、たとえば
ネアンデルタール人の脳は現代の人類の脳よりも大きく、現生人類の脳の平均サイズは
約10%縮小しているらしいのです。

分かる気がします。昔、山野を開拓し茶園を切り開いた人生をおくってこられた方と
お話した時、その活きた知識の広さと思考の広範囲さに驚いたことがあります。農業、
料理、気象、化学、生物、土木、建築、その上に乗った哲学的理念。自然に対して少数で
立ち向かう時、分業組織の一員として生きる人よりも、はるかに頭を使われているのだなと。
長崎インターネットラジオで多くのクリエイターにお話をお聴きしてもその傾向を感じます。
組織の中でルーチンワーク的に生きている人よりも、クリエイターの問題とする視野の
範囲と脳の活動領域は広いことを多くの方から実感しています。

これらの方々に比べると、流行を追うカタログくんたちの脆弱なこと。
前者たちが一度つかんだ知識が一生涯利用可能なことであるのに、カタログくんたちが日々
追い続ける情報は消費されていくたわいもないこと。結局、前者は生産者・クリエイターであるのに対し、後者は哀れな消費者に過ぎないわけです。

この植物は食えるか、どんな環境条件で生息するか。そんなことを遍く身に付けていたかつての人類は、スマホをいじりまわして喜んでいる輩よりもずっと脳は使っていると思います。口を半開きにしている若者が多くなっていることが話題になっていましたが、そういうことでしょう。

========(引用、おわり)


まつをさんの伝で行けば、都市に住むことは「楽」であり、退化の一途にあるとも
いえそう。それに安全で一見快適という側面もある。事実、60歳を超えるころから、
かつて自然児を辞任した自分でも、どっぷり自然の中に住むのはいやだな、と感じる
ようになった。

それでも地域の産土の感触も感じながら生きることに幸せ、土地とつながる喜びを
しることは、地面も自然もそのままの土地を目の前にし、そこに包まれているという
感覚でないと感取できないから、そのために人工より自然がはるかに多い地域に
素みたい。本当はそれだけで勝負はあったというべきなのだが、そんな幸せは
要らないよ、という人も多いだろう。これはわからない人に永遠にわからない。

結論は地方の幸せを知る人、求める人のみ地方に住めばいい、ということになる。
なんだか投げやりな終わり方になってしまった。

例年と変わらず実り多かった2015年が終わるにあたり、感謝して合掌。




雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/commons00.html
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タグ: 地方創生 仕事 都市




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