山菜を食する安堵のこころ  

季節のものを食する楽しみというのは格別です。

自分が住んでいる土地については、加齢とともに土地の意志というのか氏神様の気持ちというのか、そんな不思議な摂理によって土地とか風土が運営されていると自然に思うようになり、「食をいただく」という敬虔さが生まれてきます。

それはまるで、いずれはこの土地に骨を埋めさせてもらうことのお触れのような心の変化であり、前裁きみたいなものに見える。だから、地面からむくむくと湧くように生まれる植物を「山菜」として、海や川からとれるものも元気をつける「ごちそう」として真剣に頂くわけです。

ロシア産、ノルウェー産の海産物も、どこかでとれたスーパーの野菜ももちろん食卓に上りますが、「真剣な」感動とはちょっと違うものがあります。そう、生まれた素性のわかるものは感動と、ちょっぴり殺生の苦みがついてくる…。

今年の山菜は順調に頂いてきました。フキノトウに始まり、ヤマワサビ、コゴミ、フキ、ギョウジャニンニク、アズキナ、シドケ、ウド、ミツバ。これから、ショウマ、コシアブラ、タラノメ、ワラビ。いずれも林などに出かけたときに少量摘んできて1、2回、残さず頂いた。

自然から気をもらうことを総じて気功というとするなら、山菜など土地のものを真剣に頂くことは、土から口を通してもらう気も、気功であるわけですね。養生が人生の目的ではないにしても、土とともに、土地とともに
日々があるという安心感は代え難い幸せを運んできます。
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