バーストする  

私たちの日常は日々移ろいながらただ流れていくが、しばしば何かを確実に積み重ねていくようだ。善悪いずれももちろん含み、単なる仕事や知識の蓄積であることもあるし、とりあえず何ら関係性をもたないバラバラのパーツであることもある。少なくともそう思っている。
 そんなバラバラに見えた関わりのパーツが突如バーストするように突然つながり始めて形を見せ始めることがある。ばら撒いたシーズが実る、などと柔らかくいう人もいる。わたしはある条件が満たされてひょんなキッカケから生命が生まれるような、そんなイメージをもっている。そのバーストというのが、実は昨年あたりから時折出てくるようになった。悪い面ではなくいい面ばかり、ハッピーなことだけである。
 例えば、全然関係のない人間関係がある日、ある共通項を持っていることがわかり新しい付き合いが始まったり。ささやかな勉強が大きなテーマに育ったりする。こういう時は数日胸がふくらむ思いが持続する。そして自分はなんと恵まれているのだろうと素直に神々や周辺に感謝する。
 そしてなぜだろうと考える。バーストして生まれるのは、社会的にたいして意味のあるものでもない些細なことだから、きっと欲のない結果なのではないかと思う。なるようにしかならない、だから流れに任せ、とらわれることがない。人生についておおむねいつも肯定的である点などを別の角度から見ると、きわめていい加減な人生だと言えなくもない。木を切ったり草を刈ったりすることに満足できるのだから、使命感など皆無。ああ、こんなことでいいのか。目標が低すぎるのではないか?でも、きっとこれでいいのである。

 さて話は変わって、昨日の午前はアオダモに関する2回目の検討会に呼ばれた。苫東のフィールドに関することだったのでアオダモ造林地のこと、山の人がアオダモを薪に重宝してきたこと、苫東のコナラの雑木林は「こころ」に優しく、育林コンペなどはまず美しい林を創る先駆けだったこと、森林療法の第一人者らが早期に苫東のフィールドを訪れ、ここの立地条件に注目してきたこと、それらはログハウスの周辺でフットパス作りへと続いていること、そんなストーリーの一部もかいつまんで話した。
 考えてみると、あの林の故事来歴、意味などをかなり自己PRと重ねてしたことになる。ひょっとしたら土地所有者もそんな捕らえ方をしていないかも知れないから、近年わたしは自分のことを「物好きな風土のインタープリター」なんだと思うことがあるのだ。土地の所有とは、たまさかの仮の姿でありあくまで地域(人と土地)のものであろうと心の中では感じるようになったから、土地の氏神様、あるいは地霊(ゲニウス・ロキ)にわたしはチョッとだけ頼まれているような気がするのである。こう書くといよいよ危ない感じになってくる。ざわ(笑い)。
 夜は北大であるお別れの会に参加した。環境を考える場でもあったが、いろいろなタネも拾った。こういう一日に拾うシーズが背中のザックの中に無造作に投げ込まれながら突如静かにバーストすることになるのだろう。バースト…。バーストとは生きる意味にとても近い。
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