ラジオ体操の歌詞を読む  土地の魂

小学校が夏休みの朝は、6時半からラジオ体操の歌と掛け声が
聞こえてきます。今日、何気なく歌詞を口ずさんでみると、なんと
実にいい。

しかし、「新しい朝が来た 希望の朝だ よろこびに胸をひらけ 青空
仰げ・・・・」 まてよ、苫小牧や釧路のように毎朝霧がかかっているような
ところは救えないではないか。本州の梅雨時などどうする?厚い雲の上は太陽と青空だから、「宇宙」がいいのではないか・・・。

そんなことを考えて歌詞を調べると本当はこうだった。↓

*******

新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健(すこ)やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ 一 二 三

新しい朝のもと 輝く緑
さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足
この広い土に伸ばせよ
それ 一 二 三

*******

そ、青空ではなく、ちゃんと「おおぞら」(宙かな)となっていた。
さすが考え抜かれている。と、作詞作曲者を見ると、
「藤浦洸作詞・藤山一郎作曲」。藤浦洸さんと言えば、50年ほどまえ
だったでしょうか、人気の高いラジオ番組に「はなしの泉」というのが
あって、そこに名レギュラーだったのではないかなあ。
渡辺紳一郎氏などと一緒に出ていたような記憶が蘇ってきました。
ギョ、半世紀前だ。

わたしが驚いたのはこの歌詞全体のよさ。人間の日常は煩悩も
多く時には怒り悲しみ落胆、さまざまな傷も負う。凡人は世間の
汚穢にまみれるもの。朝は、それを毎日必ずリセットするチャンスを
くれる。汚穢にマヒした心をニュートラルにしてくれる。そんな朝のオーラに
身を任せるマジナイがこの歌の意味、だろうとわたしは思った。

そう、動かしながらやるヨガ・アーサナ。空に向かい、土に向かえ、という
あたりは気功に似ている。


そっかあ、そういう祈りもあったのか。そう思って探してみると、こんな、
ややスピリチャルなブログとであったのでした。
http://denhichi.blog105.fc2.com/blog-entry-169.html


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日本の構想  林とこころ

この1週間は猛烈に本を読みました。広井良典「人口減少社会という希望」、小玉重夫「学力幻想」、阿部真大「地方にこもる若者たち」、藻谷浩介ほか「里山資本主義」。

このうち「希望」と「里山」は、日本のこれからの方向を構想するうえで重要な骨太な提案が含まれていたと思います。

まず、「希望」では、おなじみの定常型社会を基軸にして持論が展開されますが、どうやら日本は小さな政府と新自由主義経済を標榜する米国モデルの追従とは明確におさらばし、相互に助け合う欧州中北部の社会モデルに意識的に舵を切っていいのではないかという思いを強くしました。米国から欧州モデルへ。これは今、国民の少なからざる合意にかわってきたのではないでしょうか。


一方、「里山」は都会人がよく語った、できもしないノスタルジックな願望とは一線を画した提案で、以前から注目してきた不思議な中国山地の、人と自然のエネルギーの秘密を伺い知ることができました。

2章で紹介されている森林利用とかオーストリアの木質バイオマスを活用したエネルギー自給のシステムは、すでに岡山県の西粟倉村や北海道の下川町が踏み出していることに似ています。

特に下川は、森林が多い自治体が地域資源を利用して木材加工を手がけ、木材の生産過程で出てくるバイオ資源をエネルギーに転換するという、一見ありふれたながれですが、このシステムのインフラは今季のいる、かなりなしなやかな対応が求められるものです。外部からのエネルギー供給(購入)に頼らない、マネーに依存しないサブシステムをつくる、ということになるのでしょうか。

***

15年近くも前にドイツとフランス、そしてデンマーク、フィンランドなど北欧の地域熱供給システムを視察したときの彼我の格差の発見と驚きを思い出します。「これからの理想はこれだ」と直感したものです。

これを日本や北海道で進めることは、社会変革を伴う革命的なインフラと同じだと思った次第ですが、当時、あの驚きを幾つかのプランにして提案したのですが、やはりほとんどまわりの反応は得られませんでした。その壁も調べてみましたが、気の遠くなるような制度上の制限があるのでした。


「里山資本主義」は、困難なその国内の実践モデルをようやく紹介している印象です。それを里山というやや情緒的にもなってしまった言葉に託したのが本当によかったのか。むしろ「地域エネルギー自給」とでもいうような直截な表現にした方が、原発からの段階的離脱までを現実的に描ききることができたのではないか。

また、いずれの著作も「コミュニティ」への視線が濃厚で、もっとも力が入っているといえます。とりわけ藻谷氏はコジェネ(地域熱供給)を体系化した新しいタウンモデルのスマートシティが目指すものを、コミュニティの復活だ、と位置づけているから、文字面ではなんら新しさが感じられないものになりかねないのがやや残念な気がしました。

しかし、思えばこれは幾度となく提案された理想像だったのかもしれません。だから、ローカルな実践をもう一度つぶさに横目でにらみつつ追っていくと、文字では見えてこない別の文脈が見えてくる。そしてそれはわたしなどが今関わっている地域再生の議論とも、とても親和性が高いということがわかります。しっかりした国の構想が求められる今、いろいろな議論が起き、もっとも納得のいきそうな構想がみえてくればしめたものですが。

構想はまずローカルな実践がモデル化されて、広がる。そういう道筋をとつのではないか。特に日本では。

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タグ: 社会 里山 経済

中高年のアウトドア、とりわけ、釣り  北海道と自然

北海道のGWに相当する今回の3連休に、近くにフライに出かけ、大きなたんこぶを作って
帰ってきました。いろいろなことを考えさせられますが、ひとつは、幼少からみんなが
慣れ親しんだ「たんこぶ」のこと。もうひとつは中高年の体力・バランス低下とアウトドアライフの向き合い方。

「たんこぶ」はぶつけたときからアレヨアレヨと言う間に腫れて来たので、午後、病院に行ったのですがレントゲンなどの結果から、いわゆる正真正銘の「たんこぶ」と判明。重力でこれから血が下に下りるので、目の辺りにクマができやがて黄色に変わって消えるだろうとのこと(外科医)。翌日、まさにその通りに進行中。

次に、ことの顛末を簡単に書きましょう。

当方は、初日は山仕事、中日、自宅で雑務(家を出ず)、3日目は白老にて、久々のフライフィッシングのロッドを出しました。大小3匹のヤマメを釣って一つ目の川は終わり。大は17cmありましたからわたしはこれで十分です。魚のサイズに合わせて、釣る道具をミニサイズ(ライトタックル)にしていくのです。この日は#2という軽いラインとロッド。

ただ2本目の川の河原でバランスを崩して転び、額を打って人生これまでにない、大きなたんこぶができたのです。みるみる腫れあがってしまいました。鏡がないのでデジカメで自分の顔を撮って、我ながら「こりゃあ、大変」。支笏湖もはしごする予定だったのを取りやめて、ロッドをしまって帰宅、午後おもむろに病院へ。

中高年のしばらくぶりのアウトドアは限界を知らされる日々でもあります。シーズンの節目に来る同年輩以上のフライフィッシャーたちの釣行短信では、渡渉時に専用の杖を用いているとか、九死に一生を得たとか、針の穴が見えないとか、兎に角、武勇伝に翳りが出てきているのは事実です。中には魚はイカをはじめほぼ釣りで自給しているトンデモナイ人も居ますが、この方は例外にしておきましょう。

で、わたしがなんとかやっていられるのは、メガネに取り付けた点眼鏡のおかげ(写真)。これなしでは針の穴に糸が通りません。(-_-;) ちなみに家内は、ここぞとばかり、わたしのアウトドア全般へのブレーキを提案し、一方でお岩さんのようになったおでこを見て何回か爆笑。

しかしわたしは思うのです。小さなケガで萎縮してしまうと、さらに大きなケガにあうのではないか。こういうときこそ逆療法、精進してアウトドアにまい進すべきではないのか、、と。

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菩薩の死  林とこころ

雑誌「致知」で出会った空海のことば。「過ちを犯して地獄に落ちても仏にいたることは可能だが、よいことを知っていて伝えない罪は大きく仏への道は閉ざされてしまう」。

なんと、常識からは離れたスーパーな感じ。よいことを人に伝えず知らん振りしていれば菩薩の死だ、と。引っ込み思案、出たがらず、奥ゆかしさなどという性格や徳めいた態度を厳しく否定しています。まさに、なんと、です。

菩薩というのはまだ仏に至る前段で、いつでもタミの力になってくれる有難いお方。希望の光であります。これは各人が菩薩の可能性を本来備えているというとてつもないメッセージが前提になっているように読めます。

つまり、仏性(誰にもある本当の良心みたいなもの)としてある積極心をスポイルするな!修行(=人生)で到達した知、悟りは周りに伝えよ・・・。

この力強い肯定。われわれ市井の人間に積極心で生きよという道筋を示す魔法の言葉か。



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タグ: 仏性 積極心 肯定

国際コモンズ学会  林とこころ

先週前半は、山梨県の富士吉田市で開催された国際コモンズ学会に出席してきました。
出席であり、参加ではないのが情けないですが、昨年9月に提出して申し込んだ
発表のための英文アブストラクトをこの3月に取り下げて、単なる出席にしたのでした。

ところが、5月になって主催者の共同代表である米デューク大学のマッキーン先生から
直接メールが届き、とてもおもしろいテーマだから是非出なさい、発表しないのは
もったいない、と何度かお誘いいただきました。でも英文20p近いフルペーパー提出と
いう義務を3月に聞いて恐れおののきとっくに断念したのでした。
(その後、学会で伺ったら、フルペーパーは義務でなくなり、出さなくても発表はできた、と聞きました)

しかし、わたしは研究者ではないし学会発表でキャリアがアップするわけでもない、
一介のコモンズのプレイヤーですから、ほとんど未練もありません。むしろ、世界の
コモンズの雰囲気を体感するだけでも十分だと思っておりましたし、実際、非常に充実した
3日を過ごすことができました。

充実の理由は、マッキーン先生をはじめ、多くの海外の研究者と実際に話すことが
できたこと。長話ではありませんが何を専門にしているか、と言うことだけにしても
うかがい知る面がありました。もちろん、こちらの状況も簡単に説明し、数人には日本語でありますが、画像ふんだんなパンフレットとニュースレターを差し上げました。

山中湖畔の宿で一緒になったエチオピアの青年サムエルくん、メキシコのルルさん、
このほか、数人のイタリア人、インドのひと、マレーシア、デンマーク、ドイツ、
英国の方などなど。学会はシャトルバスに乗った瞬間からホテルに着くまで英語漬けです
から、まあ、バスや朝食やお昼など隣り合わせになった方々と、かなりフランクにフレンドリーに話すことになります。

そんなことでなんとなあく、わかってくるのはコモンズの概念は広く地球規模でテーマにされていること、つまり土地と人がいれば必ず発生する土地問題を解決する一つのルール、考え方だということでした。

日本の方の発表では入会や財産区という仕組みの歴史展開など、とても興味深いものが
いくつかあってとても勉強になりましたが、こと北海道と言うことになると、この
入会や財産区が当てはまるところがほとんどありません。わたしの当初のもくろみは、
北海道が国内ではなく北欧フィンランドの、everyman's right 万人権に似ているのではないか、と言うことを論証するモノだったのもそんな背景があるからでした。

水曜日の午前に最後に聞いた米国人二人のコモンズ発表は、圧巻でした。おひとりは
James Thomsonさん。マッキーン先生が是非聞くようにすすめてくれたかたです。
もう一人のエリザベスさんもそうでしたが、比較的声が小さかったり、原稿見ながら早口にしゃべる方も多いなかで、ゆっくり、明瞭に、ヘッドアップして、何かを伝えようと
プレゼンテーションにのぞんでいるのでした。プレゼントは本来そういうものだったのでしょう。

ともかくも、2013年の一つのチャレンジが終わりました。クリックすると元のサイズで表示します



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男子小用考  林とこころ

築20年で、ウォシュレットを交換しました。そうしたところ、これまで7リットル出ていた水が節水で4リットル台に、そしてドアを開けると自動で便座が開くやつに代わって、雰囲気ががらりと変わった。

ものの流れは恐ろしい。我が家の女帝に、これからは男子も小水は座ってやるようにというお触れが出されてしまった。(-_-;) 男子に生まれた本懐を遂げられないのではないか、と力んだのだが、なんと、かなり清潔でこれも戻れないかも知れないと思うのだから、トイレの清潔志向というものにはかなり共通の接点が隠されていることに思いをいたした次第。

思い出したのが浴衣での用足しでした。旅館などで浴衣を着て小用をすると、あまり大きな声ではいえないが、便器の朝顔から飛沫が太ももや脛に飛んでくるのであった。これはとりもなおさず洋式トイレの男子小用でも同じ現象が起きているはずで、掃除する人たちは、それをよくご存知である。においも着くからアタリマエといえば当たり前。

だから、男子が立ったまま洋式トイレで小用を済ますのは大なり小なり汚穢のもとだったのは、男女双方とも自明だったのである。いわば時間の問題だったかも。要はいつまで見過ごすかどうか、だった。いつやるのか。今でしょ。今回、それがjust now とあいなった。

しこうして、掃除する側からの一方的な宣告には抗するすべがないのでありました。では、
あの、男子が立ったままでするカタルシス、小用、つまり立ちションはどこですればいいのか。公的なトイレットはよもや男子小用便器が撤去されることはないだろう。そうでなければ女子トイレのように渋滞が起きてしまう。

しかし、この際、本当に気持ちのいい、男子ならではの放尿を求めてみたい。それは、経験的に橋のうえや前が開けた自然であった。とすれば、いつか、男子は、ときどきは自分だけの山や林など、それらしいスペースをもちたい。所有しなくてもいい、植物に迷惑をかけない、浄化能力も十分と思えるそんな場所を創造し、それこそこれからのアジールと位置づけるのである。と、考えると家から追い出されたような気分になるから妙である。だが正直に言えば、小用のカタルシスを感じる歳でもなくなっていたことを思い出してガックリくる。

(今日は休暇をとってちょっと仕事っぽいことをした。その休憩タイムに)


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タグ: 生活 健康 衛生

生き物多様社会と日常  北海道と自然

ネーチャーを決して厭うことはないと自負する自分でも、林の中に住もうと言う気持ちにはなれない。はっきりそう意識するようになってみると、生き物多様社会というのはただの理念であって、自分はどうするかという覚悟は含まれて居ない。

だれもはっきりとは言っていないが、恐らく、その間に文明が入り込み、住居とネーチャーは分離するというのが大前提と言うことになる。極論すれば、無菌願望で効率指向のマチと、田園・里地・里山、奥山は一線を画す、というイメージではないか。

東北の田舎の住居は子供時代の母屋も小屋もわら葺だった。家の前は広い屋敷畑、裏は果樹園だった。隣接する分家との間には薬師地蔵と一本のクスノキと柿の木、それと柏餅の材料にした柏があって、日陰を作っていた。わたしは地蔵の台座のコンクリートから登れるクスノキのふた股で、少年期の人に言えない憂鬱とつきあった。

すき間だらけの建物はヘビや昆虫たち、鳥たちと巣、鶏やヤギ、羊なんでもいて、ハエやダニ、カとも一緒だった。田園地帯のまとまった集落ですらそうだったから山沿いの里山はさぞや、と想像するのだ。

多様な生き物と一緒に住むのは避けたいから、人々は密閉した家屋に住む。これはいまのところ戻れないように見える。ネーチャーはその対極にあることを、知れば知るほど痛感するようになる。

しかし、わたしたちは、家を離れたネーチャーのなかで「快」を感じることも少なくない。この世の天国と思うことも実はしばしばある。出会えて幸運だと心から思う体験も多い。

となると、あるべき姿は都市とネーチャーの往来。場所と機会か。

推論のメモ書きはこれでやめよう。ただ自覚的でありたい。虫も痒いしなにかと手間がかかるけど、プラスマイナス、やっぱり林と一緒に居られるのは幸せだ、その感覚。

若い人は、その感覚のはるか前で立ち止まり引き帰し、ネーチャーの中の「快」と内省時間(こころのドクター)との出会いをも捨ててしまっているようだ。それは実にもったいない。

では、誰が、いつやるのか。

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ローテクと単純作業  林とこころ

ある施設からシイタケとナメコのほだ木がほしいというリクエストがきて、

山仕事で発生した材を用立てしました。水曜日にきた電話にたまたま間伐の

作業予定があったのを充当。直径12,13cmをアベレージに細めを集めて

1週間後にお裾分け。



材を集めたのは斜面下、札幌に運ぶトラックは斜面上。

そこで、伝統的な手作業「手渡し」を展開です。

人間バンバも厭わない当グループですが、この日もなんともちょっと

気恥ずかしいローテクです。いまどき、手渡しのローテクなんて…。



しかしながらこのローテク、実は抜群の人気作業なのです。

しゃべりながら、作業しつつ笑みが漏れます。青年も

冗談を飛ばしながら一緒でした。なんとも、この感覚。



ハイテクにはいつもお世話になっていますが、最大公約数的な

こんな手仕事に、人間はかなり和むようだとわたしは見ています。



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ヨガと不立文字(ふりゅうもんじ)  林とこころ

先生方との先週の会合で、アイヌの人たちはなぜ文字を使わなかったのか、という話になりました。社会学のテーマの会合だったから、コミュニティの大きさとかコミュニケーションの必要性に話が及んでいきました。

わたしはヨガの教えの中に「文字では伝えることのできない悟り」の世界は、文字ではなく自ら体験してでないと伝わらない、という不立文字という考えがあったことを思い出しました。

不立文字は、禅宗の達磨の著作に出てくると書いてあるものがありますが、さらにそのもととなるヨガに起源を求めた方が、呼吸や身体をほぐしていくヨガ・アサナとの関連まで読み取れて、理解としては都合がいいとわたしは考えています。自分の健康は自分の健康法を実践して初めて気づいていくと言うそのことと関係してきます。つまり本当の医者は自分しかいない、と。

アイヌやピグミーなど狩猟民族は、動物に気づかれない独特の呼吸法を使い、獣に近づくので、呼吸法ができていない人間は獲物がない、と言う話を聞いたことがあります。呼吸が乱れている人間=悪い人間、とでもなりそうですが、それもどこかあたってるなあ、と思えたものです。

不立文字の世界とは、身近な師に型だけ習い見よう見まねで自分で体得していくものかもしれません。これはヨガ・アサナや瞑想を毎朝自分でしながら、ようやくわかってきた自分自身のことでもあります。

テクノロジーとそれを支えるサイエンスは、原理やメソッドを言葉で蓄積して人類は今日の文明をここまで築いてきました。しかし、人間のこころや人となりについては、どうも数千年前の人より進歩したと言えるのか怪しいところにも一端がありそうです。これは結構おもたい話ではあります。人としての進歩は自ら学び体得するしかない。そして、それでいいのだ、一生が学びなのだから。



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教育の大本  社会

月刊誌「致知」で池川クリニック院長の池川明氏と筑波大名誉教授村上和雄氏の対談を読みました。「体内記憶に心耳を澄ます」。

一時、「スポック博士の育児書」というのがはやりました。26年生まれのわたしも聞いた覚えがあります。池上氏によると、昭和40年以降に生まれた子供たちに情緒混乱やすぐキレる子供たちが激増したといいます。実は39年に配布された母子手帳から、博士の「泣いてもすぐ抱っこしてはいけない」「添い寝もおっぱいもやめましょう」「赤ちゃんの自立を妨げるから」など、抱っこや添い寝を否定する記述が盛り込まれ、日本ではそれが約20年続いたというのです。

それが事実だとすると、なんということだろうと慄然とします。人は誤謬に満ちた社会に後天的に育てられることもあることの典型です。そしてそのスタートである赤ちゃんあるいは胎児の時間の育てられ方がその後に大きく反映される。

教育の受け方によって、今、その後の人生が決まってしまう格差が問題にされていますが、さらに恐ろしいことに貧困や不幸から飛び出せない再生産されていく地獄。その処方箋がまだ見えていないのですが、わたしは知育と同時に、隅に置き去りにしてきた感のある徳育こそ大本の教育だろうと思います。

そんなことはわかっている、と誰しも言いますが、「価値観の多様さ」という怪物が徳育を阻んでいるのではないかと思います。一時、これを言えば議論が進まないという(金科玉条になった)個人情報、自然を守ろう、持続可能、その他もろもろ。価値観とは多様であるのは結構ですが、これだけは、というのがあるのではないか。たとえば、人生は一生学びだ、とか、他人の恩は忘れるな、とか、天上で神様がみているから悪いことはしてはいけないとか、友達を裏切ってはいけない、とか。

このごろ、教育の重さを、人間の幸せの源泉と並べてみてあらためて驚くことがあります。大本の教育として必要だと思われる人間学のようなものは、単に一人の人格の形成ばかりでなく、企業の経営や行政の舵取りなど全般におよぶ社会関係資本にボデーブローのように効いているのではないか、それをどう再生できるのか、そこが今日本の最大の問題ではないかと思います。時々、現在は人間学が盛んだった頃の遺産で食っているのではないか、と思うこともあります。どうもまた、冗漫な終り方になりました。
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ポニーによる馬搬  北海道と自然

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おととし、コミュニティ林業への道産子(馬)活用を思いついて、現場を見せてもらったり
していましたが、調教の難しさなどの壁にぶち当たって恐れをなし、冬季の木材運搬は
やはりスノーモービルにすべきかと判断して動き出したところでした。

そこへ昨年の暮れ、一頭のポニーがやってきて、オーナーは「手伝ってあげるよ」「ちょうどトレーニングになるし」と。渡りに舟とはこのこと。町内にポニーが買われていることは知っていましたが、「ばんば」競技用のポニーとは知りませんでした。

話はとんとん拍子に進んで去る2月10日、NPO会員8名の見守る中、「黒霧島」
「白岳」「リトルボーイ」の3頭は、わたしたちが積んだ丸太を最初は興奮気味に、
午後は割りとスムーズに運んでくれました。ほっと安心、そしてこの協働作業、大感動
です。

ポニーの虐待にならないか、わたしはそちらの方を心配しましたが、馬方さんや子供たち
の手馴れたケアで、ポニーたちは結構な運動をこなし、恐らくは馬たちも喜んでいると
いうのがオーナーたちの意見。「いやあ、楽しかった」とはオーナーのひとりの声。

わたしたちには、ポニーの馬搬が始まることそれだけでも胸が膨らみます。
ポニーに手伝ってもらうという一体感に、興奮もします。

そして出会いというものは、諦めないで願うものだということでしょうか。

詳細は、HPの雑木林だよりから。



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天命のようなものに気づく意味  家族

わたしのように還暦を過ぎた同年代以上の方に聞いてみたい気もする
のが、「天命みたいなもの」の自覚。いろいろなものが段々つながって
きて、「あ、そうか、オレはこのためにうまれてきたのか!」というような
ことにはっと気づくことがこのごろあるのです。そんなことはないでしょうか。


齢を重ねると失うものと同時に得るものもありますが、いろいろな感性が
鈍り無駄な気苦労もそぎ落とされて、結構身軽にもなってきます。最近は
、壊れかけた携帯ラジオから聞こえる音楽に、メロディーラインを判別
できないようなこともあります。

ちょっとした難聴が昂じたのか、会議の話題を的確に追えないようなこと
もあるから、深刻と言えば深刻。

おとといは朝から雪だったので、パジャマ姿で一日座ったまま雑務を
していたら、昨日今日は腰が苦しくて席にいるのがつらい状態。

ああ、それなのに、です。

そうして残された時間と、これまでしてきたことのひと塊をながめて
あるものが見えてきます。ちっぽけな足取りしか見えないけれども、
あ、オレの人生はこのあたりに焦点があったのか・・。そうかそうか、と。

これは小さな悟りみたいなものです。こころに映るよしなしごとが、なべて
空なのだ、などと背後から自分を眺めたりもできるのです。

こんな感じで死ぬまで生きていくのでしょうか。だとすると、人生はなかな
か素晴らしいものではないでしょうか。後半にご褒美があるなんて。
すくなくとも、人生、この程度の長生きはするものです。感謝の気持ちで
これからがまた楽しみ。

さらに考えてみると、それでいい、それで良かったという肯定は、上昇や成長を
あきらめた結果の妥協とか、逃避を連想させ、ひいては衰えの象徴
とか、あまりいい意味で使われません。己(の欲望)に勝つようにいつも
教えられてきたわけです。しかし、わたしたちの煩悩を解くカギはここに
あるのではないか…。

ようするに年金生活の手前にあたりにさしかかると、いつまでも否定ばかりもでなく、
ほどほどに意味を見いだして自分と手打ちしなくちゃならない
のかも。賢人の唱えた「天命を知る」という段階を、こんな風に理解すると著しい
曲解だと怒られてしまいそうですが(笑い
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タグ: 天命 自己否定 加齢

ローカル・コモンズの手応え  コモンズ

当NPOは今、土地所有者との理解と協力で、いくつかのフィールドを借りている。
借り方は、使用貸借ともちょっと違う、「環境コモンズ」。
環境だけを共有する参加と管理を前提にしたローカルコモンズである。

日本の身近な林をはじめ公共の公園、森林、農地等、オープンスペースは
少子高齢化と国民の都市指向で担い手や管理者が乏しい。その
課題に応える答えのひとつが環境コモンズではないか、とわたしたちは考える。

さらに、考えてもみよう。
そんな状況だからこそ、腕も磨いて信頼を得て、地域のオープンスペースを
ギブアンドテイクで利用できたら土地を持つ意味などなくなる。
土地・環境という風土は天からの授かりものだ。

では、その関係性をどう築くか。
ローカルコモンズへの関わりは社会を変える。そして
ローカルコモンズに関わることのできる幸せは計り知れない。



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「神去なあなあ夜話」を読む  林とこころ

林業のお仕事小説というのだそうです。三浦しをんさんはその道の旗手らしい。
結論=抜群におもしろかった。そしてほのぼの。ネット社会の真逆、これこそ
リアル充実の世界かもしれないなあ、と思いながら読みました。。

書評にはこんな風にあります。

「三重県の山奥で、林業に取り組む平野勇気、二十歳。神去村の起源、住人の暮らし、もちろん恋にも、ぐいぐい迫ります。お仕事小説の旗手が贈る、林業エンタテインメント小説の傑作。」

そしてもひとつは、

「100年先を見据えて作業をしている、神去村の林業の現場。 そこへ放り込まれた平野勇気も、村で暮らして1年が過ぎ、20歳になった。 山仕事にも慣れ、憧れの直紀さんとドライブに出かけたりもするようになったけれ ど……。 お仕事小説の名手が描く林業エンタメ第二弾! 秘密がいっぱいの神去村へ、よう こそ!」

お仕事小説といよりも、山の神様を描いた小説とも言える。そして「なあなあで行こう」と
いうメッセージ小説のような。

10年以上、一人で山仕事をしている間にたどり着いた、わたしの小さな
悟り、そして森羅万象とつながる幸せを、三浦しをんはなんとなく描けて
いる気がします。恐らく、山仕事をしているうちに到達するある感覚、
なぜ、それが可能だったのだろう…。

また、山(森)が、あの世とこの世の境目だと語らせる感覚も
わかります。古老に聞いただけではなかなかこうは行かないだろう
このことを、作者はどんな体験をして字にできたのだろう…。

小さな村の、隣近所のコミュニティでおこる日常の悲喜こもごもを
描ききっているこの本、わたしにとっては年末のボーナスだったかも。
今週初め、最後のあたりを朝の満員のJRのなかで涙ポロポロを隠さず読みました。

ついでに、「神去なあなあ日常」の文庫本を読み始めたところ。クリックすると元のサイズで表示します
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タグ: 山ノ神 里山 林業

子供たちの将来と教育格差の問題など  社会

ここ数年、地域の社会関係資本いわゆるソーシャル・キャピタルのアンケート調査と
勉強会をしてきて、昨年、「これからの選択ソーシャル・キャピタル」という共著で地域のつながりに関する考察をちょっと書かせてもらいました。

ここのところ、その延長線上には「教育」と「家庭」が大きな課題として残されている、
と言うことになり、勉強会はアスピン・アンデルセン、苅谷剛彦、本田由紀など各氏の
著作を読本として、輪読会のようなものが月一回のペースで進んできました。

わたしは教育者でも研究者でもないので、全くの素人の研究会マネージャーとして
ロジスティックな点からしか関わらないのですが、そこはそこ、教育というサービスを
受けてきた側として、さらに学習は生涯つづくという自覚で実践するものとして、
とても展開が興味深く感じられます。そう、これもいつかきた道です。

勉強会を通じて痛感してきたことは、

・教育の格差が階層格差に連動し
・学習する機会はもちろん、努力することそのものが所得階層の影響を受け、
・それは最終的に一生を左右する

つまり将来の希望まで格差が生じるということでした。
 
 また、ゆとり教育が詰め込みを排除する方向で進められてきたなかで、学習の初期に
詰め込みをする功罪がまだ賛否両論ですが、この年になってくると、詰め込み教育とは、
各自の脳の中に事典と辞書をうめこむものではないか、と考えるようになりました。

事典や辞書は、自分の中に、ある体系を持つときの素材であり、一定程度は不可欠のもので、
そこでは落ちこぼれは作らない、という設定が大事だと考えるに至ります。

さらに、北海道の帯広の農業高校を舞台にしたコミック「銀の匙」を読みながら、実業教育が
培う濃密な人間関係・コミュニケーションは、社会的な動物である人間の
大切な部分を育み、それは大学受験を目指したコースとは違う、真逆の人間らしさの漂う
早熟なコミュニティを作っている。そんな感じがします。

「銀の匙」では、いわば学習の真ん中に、ここで何を学んで生業にどう結びつけていくのか
というテーマ主義があって、そこに集う同年、教師、農業の先達らが切磋琢磨するのです。

今、フィンランドの幼児教育や児童教育が注目されていますが、自分で考える力を
養い、教師はそれをていねいにサポートすることが目につきます。それとテーマ主義
のような部分があるのでしょうか。

先日のフィンランド訪問では、ボーイスカウト、ガールスカウトが楽しそうに何パーティも
バスに乗り込み寝袋の入ったザックを担いで森に入っていく姿を見ました。どうもそこには
大人の引率者がいないようなパーティもありました。 クリックすると元のサイズで表示します
写真は国立公園の夕方。大人が囲んでいる話の中に幼児たちが炉などを囲んで遊んでいる。右手の東屋ではソーセージを焼いている。


雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/commons00.html
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