自然治癒力とヨガ  林とこころ

近年、なにか変わったことはないか、と聞かれれば、おそらく、

風邪を引かなくなったことがあげられるのではないかと思います。

15年前まで、仕事でもインフルエンザなど無菌に近いネーチャーの中に

いたにも拘わらず、、頻繁に風邪を引いていたのとはかなり違います。

逆に、周囲に感染性のウイルスが比較的多いだろ通勤列車に乗る毎日

の方が、罹病しない。これはどうしたことか。



その原因を探ると、歳をとったことと運動する時間がなくなったこと以外

にはあまり思い当たることがなく、唯一、あるとすればそれはヨガです。

風邪を引かない=自然治癒力=自己免疫力と考えてのことです。

20年前に心因性と思われる身体症状がでて、それを直すために

わらをもすがる思いでやり始めたヨガ的なものをきっかけに、5年ほど

して本格的にヨガを始めました。



ヨガといっても、日本で流布されるヨガは、ヨガの中のストレッチの部分

の、アーサナであり、それそのものはそのあとにくる冥想の事前過程で

あることはほとんど語られることはないようです。カルチャーセンターが

行われる公共施設が宗教的なことを禁止していることと関係があるようで

す。わたしはアーサナと一緒に、冥想を学び、始めました。



また、本格的、といってはみたものの、わたしのは全く本やDVDや、

他人の話や何やらを総合した自己流で、メンターなしの状況でした。

先達はよく、だれか師に付かないとダメだといいますから、わたしの形は

ダメな、真似してはいけない手法であることは間違いないかもしれませ

ん。



その間違いかもしれない方法でヨガ&冥想をしている間に、先達が禁止

している、師に付かないヨガ&冥想の基本的な意味がわかってきました。

少なくても冥想は、色々な精神の危険、事故が潜むということだと思いま

す。また自己流ではアーサナの間違いを修正することができません。



いわば、そのような警告を辛うじて脇にそらしてわかってくることは、

ヨガ&冥想によるリラックスと、自分との出会いです。自分との出会いが

なんとも身に覚えのあることだと思ったら、それはわたしが一人の山仕事

で浸っていた時間と、かなり相似なものでした。森林に独りで居る時間

は、ほぼ冥想である、近年は無謀にもそんな極論に達しました。



他方、このようなリラックスの時間と繰り返しが、人の免疫力をあげる、

と最近の精神神経免疫は言っています。ヨガの先達が師に付けという、

一般サラリーマンにはなかなか実現できない提示をし、それを見ぬフリを

してそれでもなんとなくわかってきたこと、それはヨガが毎日、実践して体

験体得してたどり着く、自分自身の宗教の道だということです。言葉は

無用とまで言います。



それが心身の健康とどう関係するのか、証明はできませんが、日々、

からだとこころとの自問自答で自ずと知らされてきます。これは驚くべき

ことでした。ヨガは不思議です。教祖がいなくて、自ら学び実践するしか

ない。そうしないとたどり着けない…。



わたしはこのことに気づくことができたのは20年前のこころとからだの

罹病がきっかけであり、さらにはそのときからの毎日のヨガ的生活の

おかげで、風邪を引きにくい身体も、その動機を源とする結果だと思いま

す。これから風邪の季節になりますが、五木寛之がいう身体言語に、い

かに早く対応するか、養生の要諦はまさにそこにあるのではないかと思

います。



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自然保護運動とはなんだったのか  林とこころ

先週末の夕方、札幌駅そばのホテルで行われる集まりで短い講話を
しました。わたしが用意したタイトルは「今,改めて意味が問われる森林」。

森林の意味の移り変わりをフォローすることはわたしの若い頃からの大きな関心事なのですが、話のストーリーをここ1ヶ月ほどああでもない、こうでもないと思案しているうちにたどり着いたことはやはり次のようなことです。

英国は産業化と都市化のなかで生まれた劣悪環境を、民が切実な思いで緑で憩う権利を、それまでのコモンズ利用の復活として法律にしていった。そこには人間としての基本的な欲求として「快適さ」がある。

日本は、戦後の公害と宅地開発が大きく環境を変え、反対運動も起きたが、自然保護の運動の中にとりこまれ、メディアとアカデミズムのパフォーマンスの対象にはなっても民の緑とは直結しなかった。緑はあくまで「理論」的な「解釈」としてしか実を結ばなかった。それで今、日本人の多くは緑はなくても生きていける、と本音では思っている…。

もっと正確に言えば、なくなるまで緑への自分の欲求はみえないのではないか。その証拠に、重篤な病にとりつかれた方々は、自分の大好きな緑環境や景観を身近なところにみつけ、時々密かに訪れることも多いと聞く。そしてそこはなるほどと思える場所ばかりです。わたし自身、気が滅入るときなど、林に入ったものでした。


日本人の緑地観に今、ゆがみがないだろうか、緑地の合意形成はできていないのではないだろうか、と思うことがあり、今日はそのあたりを心身の健康と森林に結びつけてお話しする予定。

ゆがみのもととたりには、自然保護運動が内側に秘めていた革新系メディアと革新派アカデミズムの見事なタッグが見えていたように思うのです。その意味では1980年代後半の知床伐採問題を時間をおいて俯瞰する必要もあるのではないか、とつねづね思うものです。


で、図らずも入り込んでしまった穴から、這い出るのかどうか…。
講話は61歳のわたしがおそらく最年少という奇妙な集まりですが、諸先輩からきっとゆるい叱責の言葉を浴びるかもしれないと覚悟しながら、話し始めたのですが、意外にもとても暖かい賛同を
得ました。それにしても、本当に言いたかったことを言わせてもらう雰囲気というのは、タカラモノだと気づきました。本音を語って相手の本音も伺う。建設的&良心的であれば、これはこの世の表世界ではあり得ないものになりつつある。タカラモノノの意味を考えている。
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森林が要る、という合意はないのではないか  北海道と自然

表題はこれまで長い間持ち続けていた個人的仮説であります。「日本人は、緑や森林なんて
この世になくても生きていける」と本音では思っている、しかし、形の上では
地球の温暖化防止とか、CO2とか、国土保全で必要だと一応は1票を投じる…。

しかし、生活実感として緑は欠かせないと本気で思っている人は一握りである。
そうではあるがある種の教養のように大事そうに振舞っている…。

例が正しいか微妙ですが、領土でもそうですが攻められる切実感、現実感がないまま、
あるいは対外的な緊張感など全く持ち合わせないうちに、周辺はすきあらばの隣接国が次々にみえてきました。こちらは誰かが守ってくれるものと、人任せのわが世の春を謳歌してばかりいたのでは、対応策も見えてこないのは当然で、下手したら、平和願望があったことすら忘れている、そこへの手立ても思考停止になってしまう…。正直、こんな事態に
変貌するとは思っても見ませんでした。


領土問題や国防と緑の世界は全く違うのですが、切実感、現実的な欲求に根ざすのか
どうかでは振り返るのに、とても底流に共通するものがありそうに思うのです。
これをとり間違うと、取り組みのコンセプトそのものが変わって来る。だから
森林ボランティアというのは国有林や道有林の保育などを手伝うことである、みたいな
思い込みが起きる。




英国には、庶民が緑のなかで憩うことを権利として要求して獲得してきた経験があります。領主に囲い込まれた土地をアクセスする権利を奪い取る歴史、それと、産業革命を経て劣悪な生活環境を改善すべく田園に向かったり緑地open space を獲得しようとしてひとつずつ
庶民の権利に結晶してきた歴史。

そんな英国の庶民の足取りを学ぶうちに、わたしはそもそも北海道のわたしたちに緑への
飢餓感覚はなく、充足への欲求もさほどなく、少なくともオープンスペースが
不可欠の生活空間だという意識は基本的にないのではないか、と思うのです。つまり、
北海道では緑は充足している、と。量か質かはともかくとして、です。

では、フィンランドのように人口密度が北海道より低い国で、緑地など自然享受が
強く求められるのはなぜか、ということになります。都会が息苦しいから森林に
向かうというのとは大分違う。むしろ、森林の環境の快適さ、子供たちの喜びなど、
プラスアルファのQOLのように見えます。英国がマイナスをプラスへ、という
なら、フィンランドはプラスの現状をさらに維持するために。つまりプロアクティブに。

北海道のわたしたちは、都会の便利さに汲々と惹かれつつも、田園や自然はレクとして
時々の楽しみとして訪れる程度で、なんの不満も提示されません。あるのは、自然保護の上ではいかがなものかというサイエンスの議論。貴重種と絶滅の問題。そこに私たち自身の生活実感はありません。

タミ、庶民の緑地願望とは存在するのでしょうか。
アジアモンスーンの、多様な自然に恵まれたわたしたち特有の現象でしょうか?



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タグ: 都市林 欧州 

フィンランドの万人権  社会

19日からヘルシンキに来ています。今日はもう5日目で、夕方の飛行機で日本へ戻ります。
13日の深夜英国ブリストルについてからあっという間でした。

英国ではコモンズという土地と権利について、フットパスの協会やコモンズの権利運動の
民間の地域リーダーにお話を伺いましたが、ヘルシンキでは、フィンランド特有の
万人権、英語でeveryman's rightという不思議な権利について、今度はどちらかというと
官側、研究者の方々にヒアリングしました。

なぜフィンランドの万人権に関心を持ったかといえば、北海道や苫東コモンズに象徴的な
誰かの土地に勝手に入ってハスカップやきのこをつむ暗黙の権利、あるいは慣習というものが
ほかの北欧4カ国と違って法律で保障されてはいないのがフィンランドだからでした。

で、特に問題らしいものはないのが面白いのですが、近年毎年のようにメディアの話題になるのは、
ある会社がタイ人をやとって大量にベリーを摘んでビジネスにしていることです。しかしそれでも
禁止したりするところにはいたっていない。

私たち3人が日本から万人権のヒアリングに来るといういうことでヘルシンキ大学の問い合わせたところ、ヘルシンキ大学では法学部系の学部長が関心を持って、それではということで万人権に
関心のある先生に声をかけ、ヘルシンキ大学だけでなく各地から10人近い先生方が集まった
というわけです。

日本からわざわざ聞きに来る万人権とはもそもなんぞや、ということが話題になったのです。
こういうヒアリングと同時に、オウルのそばに住んでいるご夫婦(通訳してくれた方のご両親)に
実際にヌークシオ国立公園に同行してもらい、いろいろ日常の話を聞きました。

ピッコラさんは63歳で、現在70ヘクタールの森作りをしているというから好都合でした。
そのピッコラさん、自分も他人の土地に出かけ他人もやってくるけれど、万人権なんてきにした
ことがないといいます。

つまるところ、わたしはフィンランドの万人権は、「寛容なソーシャル・キャピタルである」という
結論に達しました。これはまさに北海道につながる概念ということができます。

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英国ウィンブルドンのコモンズ  林とこころ

14日から英国にきておりさきほどフィンランドに移動しました。
昨日18日は、英国に共有地のような場所として、あのウィンブルドンにあるウィンブルコモンという場所に早朝下見し、ほかで用事をたして夕方改めていってきました。

なんだかいい加減な芝地(ヒースと呼ぶみたい)と迷路のような林と、
ゴルフ場がつながったような400ヘクタール。エンクロージャーから
庶民が獲得した歴史をもつ多くのコモンズは、劣悪な生活環境を改善し、
庶民のレクに不可欠だということを、闘いで勝ち取ってきたこれらのコモンズの管理費1億2千万円は、ある資料には1.2km以内にすんでいる
住民の税金だといいます。ニューヨークのセントラルパークでも似たような話を聞きます。

実に大勢の人が、近くに路上駐車してやってきています。いい加減な芝生も獣道みたいに踏み分けだらけ。中学生も老夫婦も乳母車もやってきてまあ、緑地とか公園とはこういうものよ、という感じの使い方には
感心します。路上駐車は町の振興に絶対プラスだと思ってきましたが、
これもわが意を得たりの感じ。公園利用は路上駐車に支えられています。

植生は直径1m以上のオークがごろごろしていますが、日本からいくとびっくりするのがワラビの多さ、そして一面のイラクサ群落。ラフでも憩いの場があればよい。そのコンセプトは簡単なようで複雑な価値判断があるような気がします。クリックすると元のサイズで表示します
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町史の前で  北海道と自然

公民館制度のことをちょっと知りたくて、標茶町史をめくっていましたら
町史考というのも職場のライブラリーにあることがわかって都合3冊を
手にしました。

寛政十二年松前藩士が釧路川を利用して…のような書き出しで始まるそれは、地勢、気候、農業、開拓、市街地形成、釧網線、と連綿と続きます。そしてそれだけで、なんだか胸がいっぱいになってきます。

当たり前のことですが、この分厚い町史からみると、人、一人の営みとか
人生というものは、まあ、虫けらのように些少で、花火のように刹那的で、
エスタブリッシュしたつもりの偉い人の偉業もちっぽけなもので、まるで、
集合としての民の生活こそがとてつもなく偉いものに見えて、そして、
首がたれてきます。

人の一生は、そのときそのときの喜怒哀楽、明憂愛淋(わたしのつけたし)の連続ですが、なあんだ、ちっぽけなものじゃないか、と思わせる
町史というものは、般若心経みたいなものだな、と妙なことを連想しました。(^_^;)
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タグ: 開拓 人生

ニセのバスと認知症  林とこころ

先日、母が他界して、みちのくの、縁戚の多いコミュニティに数日お邪魔しておりました。高齢社会とはまず高齢のおじさん、おばさんと一緒に暮らすことだということ、そしてその方々の多くはまだらに認知症になっているということ。

まわりのみんなは、かつてもこれからもこういうものだと知っており、病気扱いなどしないから、申し訳なさそうにうつむいているまだら認知のひとに、含むように何度でも話しかける…。これができない都市は、認知症を隔離せざるを得なくなるのでしょうか。

この↓ドイツの話は認知症の傾向と対策として注目しました。ただ、やはり、人はみな大なり小なりこうなるということが、ちょっとだけ悲しいじゃありませんか。SNSに投稿してみると心遣いだ、ヒューマンだという声もしっかりあります。耳をすますと、意外と、身内にまだらな認知症の親を抱えておられる方は多いような気がします。

http://mojix.org/2012/08/26/alzheimer-bus-stop

(HさんのFACEBOOK記事から引用しました)



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世界の中の日本  林とこころ

今年のロンドンオリンピックを見ていて、とても印象的なことは、受賞した
選手たちが「楽しんだこと」と「支えてくれた人のおかげ」という、個人的な
こころの襞と、感謝をいつもより頻繁に表現していたことだった。以前にも同様の
ことは語られていたことであっても、今回はとても揃っている感じがする。

これらを聞いたり読んだりするにつけ、大雑把に言ってアイデンテティのバランスが
変化している、と感じる。個の確立、自立といわれる自分の世界と、信頼をもとにした
つながりやチームワークの力も付けていく面とのバランスが、一皮向けたような
インタビューが多くなった。個の自立という難問をスルリと潜り抜けたような爽快さが
ある。緩やかな「ひとり」を、お互いを支えあう気持ちが取り囲んで、力になる。
いわば止揚というような世界。

もうひとつ印象的なのは、雑誌「致知」で日本サッカー協会の田嶋幸三氏がいう論理的
言語能力だ。サッカー選手がインタビューで語る戦術や抱負が、ここ数年「しっかり」
したものに感じさせるが、これは氏によれば「何をどう伝えるか」という言語技術、
そしてエリート教育だという。トップアスリートは世界に幅立っていく今日、彼らは
世界と渡り合うために必要な言語能力の向上を重要視する、せざるを得ないという。

以心伝心ではない世界。自分はこうしたい、だからこんなパスがほしい、と
考えを伝えるのである。海外を一人で旅行したり外国語を勉強しているとき、
これはよく感じたことでもあった。日常は、ひとり、俳句の世界に浸っているわけには
行かない。こうしたいので、こうしてくれないか。これを常に発して
いないとことは展開させるのが難しかった。そんなことをふと思い出した。

チーム力の開花、そして自己主張できる言語能力。一見、相反するような能力の合力が
ロンドンの風景をちょっと違ったものに見せているような気がする。

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もがきと脳のきしみ自覚  身体

自然とは感性で付き合おう、などといっていながら、
その感性すらどんどん閉じて、錆びて、感動すらしない、
見下げたものになった、と驚くことがあります。これは実は
新鮮な驚きです。

でも、日頃、もっと感性や知覚全般を磨く訓練でもしようか、という
気分にはまだ、どうしてもなれないでいました。思いがたどり着くのは、
「それが老いというものだ」という静かな諦めです。

どうしてそうなっていくのか。これはなかなか興味あることです。
このごろ思うのは、「知」へのもがきを早々に切り上げて、自ら
許容することへの誘惑。自他共に対して、いいよ、いいよとつぶやく
のです。

たまにその誘惑に抗う、struggleすると、脳がきしむのがわかります。
チャレンジすると起きるこの不協和音、そしてこれはこれで伴う快感。
自ら、何故なんだろうと疑問を追いかけるほんの小さなことが、
日頃使っていない別の脳を働かせているという実感が明らかにあるのです。
さび付いた筋肉をストレッチして伸ばすあれと一緒のような感覚。
ギシギシ、メリメリ…

さて、メインとしてどちらを選ぶのか。易きを選びたいわたしはふと
立ち止まります。yogaのアーサナは毎朝の勤めとして長い間続いて
いるけれど、脳のことは放置してきました。心身の健康と言うならば、
こちらもないがしろにはすべきでない。

(しょうもない、老いのメモにお付き合いいただいて恐縮です。m(__)m
先輩諸氏の傾向と対策、ご意見ご感想など頂戴できれば幸甚に
存じます。)



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タグ:  老化 チャレンジ

ハスカップのサンクチュアリ  北海道と自然

ハスカップの自生地に「サンクチュアリ」の名前をつけ、看板を立てました。
人為的な排水と湿原の植生遷移の帰結ではありますが、まず、同属のヒョウタンボクが
枯れ始め、いずれ、ハスカップ(クロミノウグイスカグラ)も枯れるのではないか、と
思います。わたしたちNPOは自生種絶滅もアタマにおいて、その遷移をみていくつもりです。

ですから、サンクチュアリ・デビューは誕生ではなく、挽歌にあたるかもしれません。
風土から引き去られるかも知れないことを心配するわずかな人々の、センチメンタリズム。なかば合掌の気分で看板を立てました。
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山形の簡単料理「だし」  

昨日、刈り払いの仕事の合間に、山形の「だし」の話になりました。
山形のだしは、ミョウガやシソ、ネギ、ナス、キュウリなどの野菜を細かく刻んで和えたシンプル料理。猛暑の夏などは特に欠かせないもの。

https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%A0%E3%81%97%E3%80%80%E5%B1%B1%E5%BD%A2&hl=ja&rlz=1I7GDNA_ja&prmd=imvnse&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=qRndT6b8HaLqmAWg8e2tDA&ved=0CGwQsAQ&biw=1065&bih=789

実家ではこれに「なっとう昆布」という超細かいガゴメ昆布のようなものを入れ粘り気をだして食べていましたが、一緒に作業した女性Tさんが山形の知人に聞いたものは、昆布は入れない、シンプルなものです。

http://cookpad.com/recipe/387861

早速わたしも家で昆布を入れないものを調理して、家人に出しましたら、「おいしい。でも昆布が入ったほうがおいしい」、子供は「なんかわからないけどおいしい」と珍感想。わたしは材料と気分に応じて使い分けるようかな、と思いました。

ミョウガ、シソ、ナス、ネギ。これを1mmを目指して細かく切ってオカカと
醤油をかけるだけ。お試しあれ。ベジタリアンになった気分。
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林のなかのひとり  林とこころ

世はつながりの時代だという。しかし、時々、雑木林の小屋に来て思う、「ひとりがあってのことだ」。昨日は二カ月ぶりにひとりで小屋に泊まったので、林の中の「ひとり」について宗教学者山折哲雄氏の「ひとり」を援用して、常々思ってきたことを書いてみたい。

つながりが注目される背景はよくわかるが、ひとりの重みに比べれば、つながりは、ひとつの知恵のようなものではないか、軽く薄いと思うときがある。林に独りでくると、孤独ではない「ひとり」という時間がうまれる。いつの間にか、林に入るだけで計らいが消えるようになった。

それが朋輩や肉親とも離れた、きっと社会とも縁が切れたような無色透明な「ひとり」がいる。そこになんの計らいもないとはどういうことなのだろう。

山折哲雄は日本語の「ひとり」を、西洋の近代的自我よりはるかに古い、
日本の個の意識だという。今の日本は「個の自立」と叫ばれ、群れることを
否定され、自分の中に頼るべきものもない。危うく不安定にこころが揺れる…。
人生は揺れっぱなしだ。人々がなにかの拍子にうつ状態になるのも当然ではないかと言うのだ。

山折がいう、伝統的な日本の「ひとり」、まず万葉集の柿本人麻呂の作といわれる
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」。そして
親鸞の歎異抄にある(阿弥陀の救済は)「ただ親鸞ひとりがためなりけり」。
それから、尾崎放哉の俳句「咳をしても一人」を例にあげる。何となくわかったような
かそけき香りはある。が、まだ判然とはしていない。 

古来、森林は罪びとの最後の逃げ場でもあった。避難所である。宴会・酒盛りというのも本来はノーサイドのアジールだったという。浮世の法から逃れたいとき
人は森林に入った。つながりを断ち切ったアジールである。

今、わたしが林に来るのは、森を作る目的をもったつながりの林としてでもあり、
もうひとつのもともとはアジールとしてでもあった。しがらみや法から逃れると
いうより、単純により率直で感性の高い自分に戻れることを知ったからだろうと思う。
それほど、山々や林とのつながりは長かった。きっとサイエンスとマインドが
半々だったのではないか。

山折は「ひとり」から始めない限り日本人の個の自立などは絵に書いた餅だという。独りでごす時間と空間は、じっくりとモノを考え、感受性を研ぎ澄ます宝だ、というのだ。わたしはそれほど深入りはしないけれど、林の中のイスに座って焚き火を前にすると、自然と計らいが消えるだけだ。そして何かと一体になっている感覚が時折ある。たまに人にもそんな話をしたり書いたりする。助けてあげたいと思うこともあるからだ。ただ、行きたくなる林は自分で探すか作るかしかない。わたしは実際作り始めた。すると、作ること自体が、アジールでもあった。手仕事はアタマの地獄からの避難所でもあることを知ったのである。


話は戻って、実際、早朝に冥想をしてみる。依然としてなにも計らいがなく、遠くから風がやってきて「ひとり」が風に融ける。鳥の声と一体になってわたしはいない。辛うじて右の股関節の痛みにわたしの気配が残るのみだ。

(写真は新緑の中のヨガマット)クリックすると元のサイズで表示します


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山菜の感動  

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「森カフェ」TOMATOH version

勇払原野に遅い新緑の季節がくるといよいよ山菜のシーズンになります。
上空も地面も萌え出る早春。いろいろな鳥がさえずりだし、目にはワクワク
する春の映像が飛び込むし、気温は上がるわ、で確かに心身のバランスが
崩れる事があるというのはうなづけます。

昨日は胆振(いぶり)日高以南で人気の高いスドキの情報が入り目にしました。
また、フィールドで、大好きなコシアブラをほんのわずか採り、メンバー3人で
分けました。それでも、帰宅後に家族が天ぷらと炒め物で楽しむには十分でした。

ちょうど朝から、今年何日目かも薪割り作業があり、老若男女12人が、樹木の
循環作業(エネルギー利用の手助け)に関わり、昼は、写真のように広場の
大テーブルを囲んでカレーライスをいただきました。ここでは、メンバーが
コゴミのおひたしを持参したのを大豆マヨネーズでいただきました。

山菜のスーパースター「スドキ」はこの山林にもあり、コシアブラも見つかります。
それらを年に一、二度、コミュニティの人びとの食卓に上る、この静かな循環。
このなにげない循環が、大地からの恵みであると同時に、これは食でもらう一種の
「気」だろうなと自然に思われてきます。体が求めていたものを取り入れる…。

やはり加齢と共に季節の感覚が微妙に変わってくるのでしょうか。
風土とのコンタクト感覚という至福が、たかが道ばたの山菜でも感取できる
安上がりさ。こんなことを書けばいぶかしく思われる方もおいでかと思いますが、
人のあらゆる感性を使い切って土地とつながるということは、科学の現代から
古い時代に逆戻りさせるように見えますが、いやいやどうして、花鳥風月の
こちらの方が、わたしには高度な人間性が試されていると思います。

森カフェUはとてもいいロケーションだった。そしてきれいに積まれた薪はとても
美的になってきた。薪に乾杯〜!の気分。


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タグ: 風土 山菜 森カフェ

子供たちは「いつかきた道」  社会

昨年11月に始めた里山の手入れが、いよいよ丸太を切って薪にする
最後の段階に差し掛かりました。先月から少しずつ藪から出して、雪解けと林道の安定するのを待って、これまた少しずつ軽トラックで運んでいたのですが、量がまとまったので、関係者に声をかけ、祭りのような作業をしました。わたしのみたところ、薪は正味60㎥。

さてこの作業では16人の参加者のうち3名が子供。小学生男子児童、中学生女子、高校生男子の各1名が、お父さんやオジイサンに連れられて手伝いに来ました。苫小牧1、札幌2です。

子供たちは、オジサンおばさんに囲まれて、実に子供らしかった。小学生はネコの手よりはるかによく働き、はきはき受け応える純真無垢な人気者。

中学生になるといろいろな思いもあってすぐには溶け込むことはないけれども、段々打ち解けてきていた。オジサンおばさんらは、自分もいつか来た道だから、それをじっと見ていて、何気なく声をかける。高校生は、もうマイペースで黙々と薪を割っております。

こうやって人生のシーンを重ねて子供たちを見ていたとき、突然、
「そうだ、これがこれからのコミュニティではないか」と思い始めました。
祖父母とも離れて核家族で生きる今日、つかず離れずのこの関係は、子供たちにもきっといい意味があるのではないか。自分がこの子らを
肯定的に、まさにそんな眼差しで見ていることに気づいたのです。

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老後と移住  林とこころ

少子高齢化についての座談会の企画に関わって傍聴しました。

高齢者の引きこもりもあり、「場」の意味がクローズアップされました。集い(集まる場所)は資源だ、とのコピーが妙に印象に残ります。集えば、色々なアイデアも自然とでてナニカが発生するということで、どうもそれが札幌はじめ現場の到達点の一つみたいでした。今、コミュニティカフェやゲストハウスに注目が集まっていますが、空き店舗対策をからめてなにかアイデアがうまれそう。

60歳台後半に見えるNPOのかたは、抗がん剤をうちながら少しつらそうに、高齢者の福祉現場をかたり、社会全体が向かわなければならない方向を示して見せます。都市社会学、家族社会学のふたりの大学教授は、現状を分析しつつそれと施策を行ったりきたりしてみせました。猛一人の先生は「おやじの会」を結構、熱く語りました。道の担当セクションの方は冒頭で北海道の現状をデータで示したあとは熱心な聞き役でした。

もう一人のスピーカーは移住者で有名な自治体のトップ。この首長さんは、本州からの移住者が、同じ市内にある限界集落の高齢者に対する冬季集住の政策経費に大声で反対を唱えていることをかなり残念そうに語り、そしてその方々の最終の指向は札幌であることを紹介されました。これは少なからずびっくりしました。つまり移住者とは所詮なんなのだ、という感じ。転出元とサバサバと別れ、転出先でもコミュニティからは距離を
おき、老後に医療の心配が発生する頃、医療の充実した札幌へまた転出する。

お金のある人はいいよね、という声が聞こえそう。そういうもんですかね。地域の人と土地と心中する、という選択肢はないんでしょうかね。わたしは個人的にソッチを選びます。

で、今回の座談会、福祉NPOの方の現場感覚に満ちた事例発言など、刺激的な、ある収束する考え方に触れました。つまるところ、リスクの分析とタスクの展開、とK教授は持論で結びました。

こうして雨漏りを後手後手で防いでいくのが世の中と割り切ってみます。悲観するばかりが手ではありません。福祉を消費するばかりが人生じゃないなあ、福祉を支援する土地の人になろうと思った次第です。」
雑木林&庭づくり研究室
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/index.htm
NPO法人苫東環境コモンズ
http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/commons00.html
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