青年寄宿舎のホームページ  青年寄宿舎

今日は天候が不安定だ、と踏んで、懸案になっていた
ホームページ作りを朝から一気にフィニッシュしました。
18年に閉じた北大青年寄宿舎の日誌データベースのHPです。

50台から80台までのOB15人程度ですすめた作業は恐らく
原稿用紙で3000枚を越えたあたりか。

壮大な骨折り、無駄骨をいとわず、2年で良くここまで来ました。
ふーっ。

手書きの難解な日誌を書き写すわけですが、仲間内では写経に近い、
と評判も聞かれました。わたしはもうやりたくない(-_-;)

トップに書きましたように、明治、大正、昭和の始めの学生の
息使いが伝わります。食料調達とレクでしょうか、ウサギ狩り
が何回も出てきますし、おみやげに生きた鶏なども頂戴します。

時の合言葉、control your appetites & passions
はこのごろはボーイズ…より身近に感じるようになりました。

ご覧あれかし。記念誌のグラビアから入られるといいかも。

http://seinen-kishukusha.com/
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青年寄宿舎の舎友会、2回目  青年寄宿舎

財団が閉じて親睦会のみになりました。

明治からの日誌の復刻作業が地道に続いていますが、
古いOBの方々との交流もわたしにはとても刺激的なものが
あります。

今回の田端宏先生の講話「北海道史をふりかえって」(画像)は圧巻でした。

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軍国主義へのとまどい、ためいき(青年寄宿舎日誌17)  青年寄宿舎

田端先生の抜き書きシリーズ12

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軍国主義へのとまどい、ためいき 

昭和7年10月23日(日曜日)

朝から天気良好なれど風強し。 予科生、本日日曜だと云ふに午前十一時より中島公園に於いて国防義会大会に武装して引き出され国防行進なるものを行ひし頃より雨降、帰学の時、既に皮膚に達する有様、何の因果か、何とそれ軍国の秋よ。三時既に帰舎す。不平満々。夜、ヂンバリストの提琴大演奏会、大多数の舎生出掛け失我の境を味わって帰る。夜、天気良し。

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【コメント(田端)】

  昭和7年(1932年)は5・15事件の年、前年の満州事変から翌年の国際連盟脱退に至るような軍国主義の風潮が極端になってくる頃で、既に平和運動、左翼運動などは厳しく弾圧される時代になっていました。軍国主義批判の言葉がはっきり日誌に書かれることもあり得なかったようです。しかし、その風潮へのとまどい、嘆息に見える記事はいくつもみられます。ここでは日曜日、雨の中、国防行進に「引き出され」ずぶぬれで帰った予科学生の「不平満々」を紹介して、「軍国の秋」を歎いているようです。偶然か、想いをこめた修辞か、世界に名声の高いバイオリニストの名演奏を聴く「失我の境」を対比させて書いてある所がなかなか味があると思いました。 

第○師団の○○市出発を送る「人の山、旗の渦」の大感激を書いた後に「さあれ、国家の干城よ、一時の感激の後に定めなき運命の神に導かれんとは」と記したり(昭和7年9月26日)、 「本年の演習の余りに多いに驚く」(同年11月4日)と記したりしています。

10月27日には北大でも行われた「大学赤化事件の処分発表」について意見が書いてありました。「何を標準の罰か、彼等の将来を思はばもっと軽くしてやる方が穏当ではないかと思ふ。」というものでした。

 なお、この頃の日誌執筆者=文芸部委員はF.W.君でした。
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寄宿舎のカメラ事情  (青年寄宿舎日誌16)  青年寄宿舎

田端先生の抜き書きシリーズ11

「青年寄宿舎カメラ事情」

【昭和7年4月28日】

天辰君パーレット六八の写真機を五番館にて購入、その
スピードモーションに我等一同唖然たり。兄貴株の大岩君の
パーレットの活躍振りは既に其の方面に於て定評あるもの
なれど、これは又素晴しき同志を得たものである。
噫、世は春なるかな。


【田端先生のコメント】

 パーレット六八は、小西六本店が大正14年に売り出した国産のカメラで人気が高く、いろいろな機種が登場したようです。大正14年、売り出し当時のPEARLETTE f 6.8の価格は25円(外国製のものに比べれば安い方だったようです)、当時の新聞1ヶ月の購読料が1円程度、今は4,000円くらいなので、25円は今の10万円くらい、とか・・・「http://blog.so-net.ne.jp/onkochishin/2007-07-24」によりました。

 7,8月分の食費1日77銭(1か月で23円ほど)との決算となり、その高額にびっくりして副舎長の「英断」を以て1日50銭にした−−差額はどうしたのか書いていませんでした−−と言う頃のことですから25円はかなりの出費、にもかかわらず思いついたら忽ちデパートで買ってきたスピードモーションにみんなが「唖然」としたというのでした。

 副舎長の英断は、為替レートの切り下げにくらべてもより重要な英断だと言うような風にも書かれていてこの年代らしさが出ているなあ、と思いました(昭和7年9月22日の記事)。

 自転車で月寒方面にカメラネタを探しに行く人、日曜には円山公園で撮影を試みる人、等々、「写真道に夢中」の人達が何人もいたようでした。名前を拾うと6〜7人。小生の在舎中の昭和30年頃よりずっと多いようです。

 もっとも「写真師の活動に依り、手稲登高の趣は半減せられたりと云ふも敢て過言に非ず」(5月30日の手稲登山の記事)、する感想もありました。



*本シリーズは、現在、青年寄宿舎OB有志が進めている
 明治時代以来の日誌を解読し発刊する事業の一環として、
 田端先生が担当されている比較的古い年代の日記から、
 特に時代差がにおうような日記を先生が紹介しコメント
 を書かれているものです。画像などは、わたしのHP
 http://homepage3.nifty.com/hayashi-kokoro/
 「ああ、青年寄宿舎」にあります。

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兎狩り  青年寄宿舎日誌15  青年寄宿舎

田端先生の抜き書きシリーズ10

【明治45年10月6日】

☆兎狩り・・・4匹もとる

 10月6日  星影尚しるき朝の五時数多のヴェッカーは一時に暁の静寂を破ってあちらこちらに響いた。舎生は飛び起きた。今日こそ兼ねて待ちたる兎狩当日である。各自四個の握飯を携へて雄々しくも立った。一行は舎生十六名、副舎長及び数日前まで我舎生たりし守谷君との合計十八名である。

軽川までは汽車の厄介になった。それより守谷君、安井君、下村君等の先導にて北方に進む。約半里にして第一回の襲撃を試みた。二頭の敵を前に見て空しく逃がした。以後、全軍の意気阻喪し四,五回の中は更に獲物はなかった。益々西北に進む事一里余にして遂に或る敵の根拠地に到達した。小笹の中を追ふる事二回にして四匹を逃がし終に一匹を獲った。一同の元気は再び快復した。一同は茲に嬉しくも持合の昼飯を平げた。

此時、徳田副舎長は帰へられた。是より先県人会の為とて佐藤君も帰へられた。追う事尚数回にして一匹を打ち得た。敵の剽悍にして実に出没の機敏なる、兎角不平性の一致を欠きたがる我等追撃隊を苦しめた事は非常のものだった。

午後三時に垂んとして日暗く、風荒く寒かったので拙者は風邪の為を以て豊島、根本と共に先に帰路についた。然し眼前に列車を見て而して乗り後れたのである。僕は林檎で喉の渇きと痛を癒し、只管本隊の来着を待った。五時半頃奥間君と園田君とは四匹の兎を重たげに差担ぎにして来た。僕等は一時に拍手した。程なく全部停車場に着いた。

一同は随分空腹だったらしい。安井君は途中臥れたったと誰か言った。五時五十一分おしあひへし合ひ込みに込んだ下り列車にとび込んだ。札幌に着いてプラットホームを出るとすぐに得意げに今まで網で包み隠し置いたる件の獲物を曝け出して持った。そしてデカンショ歌で練りかへった。舎前に来た時は一同転た青年寄宿舎万歳を三唱せざるを得なかったのである。今日の兎狩は大成功を以て芽出度く此所に終わった。
(残りの10行ほど省略)


【コメント(田端)】

兎狩りの記事はいくつもありました。
明治43年11月8日 予科の兎狩、21頭も獲る。
明治43年11月22日  水産科、兎狩
明治44年10月27日  水産科、兎狩  
大正3年10月4日  青年寄宿舎の兎狩、1匹獲る。

なかでもこの記事はもっとも詳しくて興味深いです。大成功で終わって翌日の夕食では「淡泊の而も柔らかい甘い兔肉を充分に貪り喰って大満足で舎生一同は口々に甘かった、うまかったと叫んだ」ということでした。

 しかし、困った問題も起きていました。兎狩りの網は札幌中学から1反につき5銭を出して10反を借りたのですが1反を紛失してしまったのでした。軍隊で言えば軍旗を失ったと言うほどではないにしても兵器を失ったのに均しい事だ、と委員会での嘆息が書かれていますが運動部主催の行事だったので運動部委員氏は札幌中学と弁償方を相談しなければならなくなったのでした。10月9日記事には「品物にて弁償する事となった。」とあり、11月20日になって「運動部で注文して置いた兔網今日漸く整ふ。代は二円七十銭なりし由、同委員さんもホット一安心されたろう」ということになっています。

網紛失一件のほか、夕食の前に密かに肉を煮て食った奴が居る、兎狩りに行かなかった奴だ、夕食の時も肉ばかりすくって喰う奴が居たとか、嘆かわしい有様が見られた、と。文芸部氏は舎生はゼントルマンでなくてはならぬのにと、歎かなければならない様なこともあって、兎狩りは楽しい「大成功」だけではなかったようでした。

 なお、兔を四匹も(4羽とは書いていません)誰が、どのようにして食肉状態にしたのかは書いていませんでした。それから日誌ぬきがき本文冒頭のヴェッカーは、ドイツ語で、WECKER-目覚まし時計のことでした。



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takeの感想

リアルな描写に、昔日の感を禁じ得ません。大イベントだったのでしょうねえ。
わたしが担当したところでも、鶏を2羽もらったので、とかありますから
舎生がさばいたのでしょう。またもや、飲まず食わずの空腹感が伝わり、
一日が濃密。
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オルガン余話(日誌14)  青年寄宿舎

田端先生の「青年寄宿舎日誌」ぬきがき(9)

【オルガン余話】

明治45年7月18日

毎日朝寝坊博士なる余も本日は久しぶりに早起きをなし心持宜しき事甚し、時に一人の婦人裏口にあり、何の用事かと思へば事は意外にして小学校の先生らしき者にして9月よりオルガンの教授にてもするらしく休暇中楽器の使用を願へる者にして只九月迄にしてそれ迄楽器買求の資力なきとの話なりき、もし舎にてひく事出来ざれば暫時休暇中損金を出して借りたき由申し出ずるに至りては滑稽至極の話なり、然し至りて真面目らしき者にて年の頃二十三、四位の婦人なり、只九月の用意の為め是非実習致さねばならぬ為かかる舎迄依頼に来る熱心の程は感心の至りにて余も当時竹の練習に余念なき時なれば、余一人としては其熱心に感心して借すを許したかりしも一人にて定むるを得ず、徳田さんも返事に困じしものの如く、宮部先生に許しを願ひ許されなば宜しとのみ返事され婦人は帰宅せり。

【コメント(田端)】

 夏休み中の寄宿舎に若い女性がたずねてきました。オルガンを借りられませんか、というのでした。小学校の先生らしい彼女は九月からオルガンを教えなければならないらしい、尺八の練習に余念の無かった文芸部委員氏は楽器の実習に熱意を示す彼女に貸してあげたいものだと思ったのですが・・・・

 静かな札幌の北五条西九丁目、オルガンの音は近くを通る人によく聴こえていたのですね。申し出を「滑稽至極」と書いたのは女性の熱心に同情するのが恥かしかったから?

副舎長氏は宮部先生の許可があれば、と言ったのでした。
 このあとの様子は日誌に出ていません。宮部先生はきっと貸してあげなさい、と言ってくれたのではないかしらん。


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【takeの感想】

ううう、情景が彷彿としてきます。「一杯のかけそば」みたいな清貧の実話。
いいお話しでした。時間の流れ方が今と違います。

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紀年祭歌「鳥、暁を告ぐるまで」の楽譜が誕生!  青年寄宿舎

明治39年11月9日の日誌の抜き書きで、田端先生が、下記の部分を
引用され、「どなたかメロディを」と書かれたのですが、わたしが勝手に
「それはチェリスト&ギタリストの石田君だ」と半ば冗談でフォローし、
ここにしたためました。

それが本州に住む石田君に伝わり、立派な楽譜が届きました。
1回目は、写真右の、歌詞とメロディ。寮歌っぽくてバンカラ風。

これだけでも上出来だったのですが、さらに、バイオリンとチェロ、
ピアノにトランペットのパートをいれ、テノールとバスの2部合唱に
なるような小品が完成したと第2信。final notepad というソフトで楽譜を
開くと音が出て楽しめるというおまけ付き。

もちろん、田端先生は大喜びです。


作詞:吉田守一 作曲:石田明男  いつか歌ってみましょう。


>今晩、次の歌を練習す。紀念会席上にて歌唱せんが為也。

  「エルムの樹蔭にたちてより    幾星霜のそのあいだ
   理想の丘を目ざしつつ      愈々栄ゆる寄宿舎の
   齢はここに八年の        今日は祝之吉日ぞ
   祝へや、祝へ諸共に       鳥暁を告ぐるまで 」

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舎友の帰国に送る文(日誌13)  青年寄宿舎

田端先生の「青年寄宿舎日誌」 ぬきがき(8)


■明治37年3月3日

 やよいもついたちすぐる三日となれば姑射の松はかぜに笑み千年にいろいよいよふかくなりまさり羅浮の梅はあめにものうちいいてまれなる香のいよいよ清くなり鶯のはつこえいとおほどかになきいでたるころになるべきに之はただ内地のけしきにて札幌の天地はなほも雪の中に埋まりて人をなぐさむべきにもあらず。

唯月のみはいとかすみてをもしろく軒端に下るつらヽにてりてそのけしきいひしらず、たぐひなきにもすみなれし古里のそらまづ思ひ出でられてそぞろにむかし恋しく思ひつヾけられけむ、わが舎の鈴木○○君は今日札幌の地を後にしてともの都にぞむかわれける、君がこの地を去りしは古里恋しきにあらず他にことはりあればなり。

 君がこぞみそぎする夕の冷気いとすヾしくしてきのふけふみづのひヾきのいとすみてきこゆる初秋のころいつくしみふかき父母にわかれ姉妹にいとまをつげて学の道にこの地に遊び通学せしもつかのまさヽいのきづより入院しようようとしたちかくりて、睦月半ばをすぎつるころ退院せしも再びあしくなりいよいよ帰こくに定められぬ。われら友からはまことにきみの同情にたへぬなり、この日そらも何となくなかれむごとく、あさまだきよりくもりてかぜみぞれはげしく、われらは停車場まで見送る。われらは君の早く来られん事をまち札幌の天地また君をまつめり。

【コメント(田端)】 

 病気の友の帰国におくる文章ですが、凝ってますね。
姑射・・・諸橋『大漢和』によると、姑射山・・こやさん 仙人が居るという山。
 藐姑射山 はこやのやまとも云うそうです。読みがわからなくて広辞苑では     調べられませんでした。 はこやのやま 方は出ていました。
  
羅浮・・・これまた広辞苑には出ていない。『大漢和』によると 羅浮・・らふ 
 広東省の山、山麓は梅の名所で古来名高い、とありました。

 明治の若者はこんな言葉を心得ていたのですね。日誌には、手稲登山や定山渓遠足を美文調に叙する名文もみられます。


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*takeの感想

うむむ。美文というか、この文章に濃密な人間関係を感じ取ってしまうのですが、
単なる当時のレトリックなのでしょうか。レトリックに心がついていくのでしょうか。
言葉がこころを引っ張るかも、と、ふと思い始めます。
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初めて電灯がついた(日誌12)  青年寄宿舎

田端先生の 【青年寄宿舎日誌】抜き書きシリーズ(7)

●大正2年1月8日

冬休み寝坊の習慣と為りてなかなか規定の時間に起きるのは容易なる事にあらず。

朝より電燈掛来舎して取りつけを為し、其の晩より初めて電燈がつく様にはなれり。

当舎も夜の如きは今までとは外観を異にする様になれり。

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【コメント(田端)】

明治40年代になると札幌水電という電力会社の電力供給が始まって
電灯をつける家も大分多くなってきたということですが、需要が多くて
容易に電灯がつけられない状態も続いていたとのこと、大正2年頃は札
幌の1万6000戸ほどのうち8300戸ばかりが電灯をつけていたと
のことです(『新札幌市史』)。

農学校の寄宿舎(まだ恵廸寮という名前ではありません)は明治33年
に電灯をつけていると云うことです、官立の寮は違いますね。

青年寄宿舎では寄宿舎前の道路の外灯電気代が工面できず、明治44年
春から宮部先生が毎月1円の電気代を負担してくれていたのだそうです
、「舎より支弁の方法も不能故、世話人に交渉して電燈代減額を請求す
るに決したり」(明治45年4月13日の記事)と、ありました。



*takeの感想…文明がゆっくり進んできた様がまさに一歩一歩といった
       感じで描かれ、襟を正します。

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T君からのたより:青年寄宿舎ドキュメントの評価  青年寄宿舎

若いTさんがエントリーした青年寄宿舎の交友と歴史的取り組みを
描いたドキュメント「百吟フロンティア」の評判を本人のメールで知りました。

また、取材でお世話になった寄宿舎OBの先生方や、関東でつきあってくれた
Oさん、道内でも関東でもサポートした別のOさんなどにも、作者からDVDが
送られたようだから、ひょっとして今頃、ご覧になっているかもしれません。

前にも書きましたが、ドキュは3名の先生方が縦糸としての歴史と骨格を語られ、
わたしらの交友が、ぼそぼそと、閉舎を機会に偶然また始まったひとつの交友を
横糸にして描かれています。

最初から最後まで語りが続き、説明が全くないのは不親切だとか、語りが冗漫だなど
の辛口の感想も、当然ながらあったようです。

龍村仁監督の「地球交響曲」(ガイアシンフォニー)は、各作品ごと、テーマに
そったナレーションがあって、そこにオムニバス風に数人の語りが一人ずつ入る
わけですが、アレですら、語りが多すぎて理屈っぽい、と敬遠する人がいるの
ですから、Tさんのドキュは当然そういった感想が出るはずです。

でも、わたしは、彼の今回の作品で、ドキュの見方が少し変わりました。
この手のドキュは自分の鏡だな、と。

Tさんは、さらに編集をすると言っています。また、札幌で上映会もしたいと
言っています。できれば縁の北大がふさわしいはず。編集会議の時までに
その辺の話もすすめましょうか。
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オルガン(日誌11)  青年寄宿舎

田端先生の抜き書きシリーズ(6)


青年寄宿舎日誌 明治41年12月28日

 久しく望みて苦心惨憺、漸く「オルガン」を求む。価参拾八円、内田君、丹部君等の奔走に依り椅子(価二円二十銭)を寄附せしむ。富貴堂の奮発之れより大なるものなかるべし。
同年12月29日
 「オルガン」に関する規則を定む。
設置室    新聞縦覧室
修 繕 文芸部に属し、文芸部之れが任に当る。
借 債 舎費より参拾八円借債し、雑収入より毎月六拾銭、文芸部より毎        月壱円宛返済し、明治四十一年十二月より初まり明治四拾参年拾       壱月迄に悉く返済するものとする。
使用時間   夕食後一時間、但し、土、日曜日は一時間半とす。



【コメント(田端)】

思い出ふかいオルガンはこの記事のようにして青年寄宿舎にあったのでした。みんなで、自力で購入したのだとは思いませんでした。
 オルガンを売っていた富貴堂は、この年9月7〜8日新築開店で福引き大売り出しでした(この日誌9月7日の記事)。オルガンの椅子も開店大サービス?明治末年オルガンを売っている店がある地方都市はどのくらいあったでしょうか?札幌の「文化度」(?)の現れ?!
このころの日誌によると
1 舎 費   一人毎月1円づつ集める。様々な雑支出に当てる。
2 文芸部費 運動部費とあわせて一人毎月15〜20銭を徴集、文芸部だけだと         月10銭くらい かな?催事の時の茶菓代などのようです。
3 雑収入   新聞3紙、雑誌2誌ほどの旧号のセリ売りの売上金(旧号購入の希         望舎生が入札して買うのです)くらいか、と思われます。毎月40         〜60銭くらい、多いと1円くらいが記録されています。

満室の24人の状態は少なかったようなので、2,3をあわせて月額2.5円〜3円位の所から1.6円を返済する事になったのですが、茶菓代等もずいぶん節約した  のでしょうか。オルガン代金負担の影響がどのようだったのかについてこのあとの日 誌に見あたりません。

ちなみに毎月末の食費決算額6円余が最低で、最高は9円20銭、炭を使った部屋 は82銭(1月)、59銭(2月)の負担がありました。ストーブを使う部屋もあっ たようですが、其の燃料代について記事がありません。どうしてかな?


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草苅メモ

太田さんが担当する昭和10年代?の日誌に、石炭代が高いから4人で一部屋を
使おうという話が出てくるようです。このころは、石炭ストーブもまだなかった、
ということでしょうか?もっぱら炭ですか?炭坑はもう採掘されてますね。

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副舎長は宮部先生が指名(日誌10)  青年寄宿舎

田端先生の抜き書きシリーズ(5)


明治40年6月16日(日)

 午前八時半より寄宿舎の前の庭にて吉田副舎長送別の紀年として写真を取る。宮部先生も御出でになったのハうれしかった。写真を写した後、宮部先生は一同に向ひ、吉田君が今回札幌を去らるヽに付て、其の後任として○○○○君に副舎長になって貰ふ事にしたと云ハれた。今日は雨は降らなかったが風が吹いて道が悪いので町へ出る人ハ大困りであった。


【コメント(田端)】

 副舎長は宮部先生が指名するものだったようですね。この○○○○君の人柄をあらわしている文章が明治39年の『漫録』にありました。
 彼の署名のある文章のぬきがき

 Rooseveltノ所謂奮闘的生活ノミヲ打続ケテStruggle for Existenceノ奴トナラナケレバ今後ノ世界ニハ立ツ能ハザルベキカ・・・・・・・・・諸君如何ニ解釈サルヽヤ。

 何人デモ単ナル祷リヤ勉強デ直覚シ得ルモノデアローカ、兎ニ角scienceノ前殿ヲ通過シテ後、神ノ正殿ヘ入ルコトガ必要デアル。此ノ点ニ於イテ牧師ナドニ皆一応農学ヲ課シタキモノデアル。

 クリスト教の親玉たる基督を見よ、苟しくも堂々たる一個の男子が磔殺さるに当たりて「神よ何ぞ我を棄て給へる」など飛んでもない泣き言を云ったではないか、日本の武士は足軽でも自若として切腹した。

 敬虔なクリスチャンであった宮部先生は、こういう感じの、まじめな○○君を副舎長に指名すると言う考え方の人だったのですね。
 ルーズベルトの奮闘的、或いは戦闘的生活を説く著作が、この頃もてはやされていて青年寄宿舎でも『ルーズベルト集』を購入したという記事があります(明治40年2月5日)。卓越せる国民は戦闘的なり、戦備は平和を維持せんが為なり、戦場は好個人格の修養地、というような見出しの並ぶ勇ましい著作です。北大図書館には原書しか無かったのですが訳書は道立図書館にありました。

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草苅メモ

宮部先生がまじめな○○さんを指名されたその一事で、人としてのぬくもりが
伝わってきますね。背景がぐんとリアルになります。



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レトロな曲、届きました  青年寄宿舎

前々回の田端先生の書きお越しの最後に、

>どなたかレトロな寮歌調のメロディーをつくってくれる人いませんか。

があり、わたしが、ギタリスト&チェリストの石田さんはどうかなあ?と
書いたら、以心伝心、大川氏がつないでくれて、今日、石田さんから、
開封不可能な特殊なファイルで「楽譜?」「音」が届きました。

が、まだお目にもお耳にも掛かっていません。(笑い

これは楽しみになってきました。
ドキュとメロディーを鑑賞する会をもうけねば。

田端先生、T先生にもお知らせしましょう。

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寄宿舎のドキュメンタリー完成!!  青年寄宿舎

かねて紹介したことのある青年寄宿舎の、閉舎から日誌復刻作業を
扱ったドキュメンタリフィルムが、5月末、無事、山形ドキュメンタリー
映画祭に出品されたもようです。

先日、早々に送ってもらって拝見しました。

奥田、田端、所3先生のインタビューが歴史の縦糸として扱われ、わたしの
前後の交友を横糸にし、それも5月、偶然に見つかった一本のテープで
ストーリーを作っている偶然の作品です。長い間のブランクが、寄宿舎の
閉舎パーティで埋められ、久々の再会、日誌の書き起こし作業などで再び
交友が始まったわけですが、Tくんのフィルムはちょうどそこのところを
写し取っています。

関係者には是非お見せしたい作品です。

参加作品のタイトルは「百吟フロンティア」。作者の意図した、寮の生活と歴史、
交友に秘められた「原風景」の部分は、うまく表現できているのではかな、と思える
力作でした。

なにも誘導しないで、登場人物の動きだけでストーリーを作っていく
いわば成り行き任せの作品、ドキュ。なかなか、深みがあると思います。


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愈々栄ゆる寄宿舎の…(寄宿舎日誌 9)  青年寄宿舎

青年寄宿舎日誌 田端先生のぬきがきシリーズ 4 
(明治39年11月9日)

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 十一月九日

次第に寒くなって霜柱や氷や雪や、さては手稲嵐や、珍しくもなくなった。
明日は創立第八回之紀念会でそれぞれ忙しい様だ。余興委員諸君は熱心に趣向
をこらして居らる様だ。実際愉快に興多く明日の会をおへたいものだ。

 倉賀野君の兄君御死去の報あり。寄宿舎より悔状を出す。
 今晩、次の歌を練習す。紀念会席上にて歌唱せんが為也。

  「エルムの樹蔭にたちてより    幾星霜のそのあいだ
   理想の丘を目ざしつつ      愈々栄ゆる寄宿舎の
   齢はここに八年の        今日は祝之吉日ぞ
   祝へや、祝へ諸共に       鳥暁を告ぐるまで 」

  吉田(守一)君の尽力で一夜作りに完全に出来上がった。


【コメント(田端)】

青年寄宿舎の紀年祭歌があったのですね。『青年寄宿舎五十年史』(昭和24年)にも「明治三十八年第七回記念祭歌 吉田守一君 作詩作曲」として載っていました。『五十年史』には「昭和五年第三十三回記念祭歌 土井恒喜君 作歌選曲」
も載っています。吉田先輩、土井先輩とも副舎長をされていた方でした。昭和二年恵迪寮寮歌「蒼空高く翔らんと」も土井先輩の作歌でした。

 この日の翌日の日誌、紀念祭の記事には「昨夜の練習の唱歌を歌った、否怒鳴った。」とありました。残念ながらメロディーがわかりませんが、「齢はここに百余年」という歌詞にして「怒鳴って」みたいものだというような気分になりました。

どなたかレトロな寮歌調のメロディーをつくってくれる人いませんか。

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*田端先生のコメントへのコメント(草苅)

それはOBの石田くんあたりどうかなあ。チェリストでギタリスト。
娘さんを連れて閉舎記念に来ていたOBです。

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