前回予告のとおり、エイモンF101発売記念!
というつもりでしたが、モデリッシモとかいうメーカーからエンサインN176(エイモン最後のマシン)まで発売になるとか。
というわけで「エイモンF101&エンサインN176発売決定記念!」てことで久々に語ろう。
「これもレースだ」ではすまない悲しいお話 mod
クリス・エイモンの悲劇
クリス・エイモン。勝てそうで勝てなかったドライバー、不運なドライバー、という話題になると必ず出てくる名前ですね。エイモンの不運さは様々なサイト、ブログで語られていますが、どうも甘い。
不運といわれる他のドライバーとはその才能・実力においても不運さにおいても全くレベルが違う、長いF1の歴史の中で唯一無二の「ダントツに不運な天才ドライバー」なのであります。十羽ひとからげに「ツイてないドライバー」の一人で終わらせてはいかん。
エイモンは1963年.19才でF1デビュー、弱小チームのレグ・パーネルゆえパッとした成績は上げられませんでしたが、スポーツカーの世界で65年にフォードワークス入り、66年ルマンで同郷のブルース・マクラーレンと組んで幸運な勝利を掴みます。
F1では67年、マクラーレンで走る予定だったようですが、フェラーリが彼の才能に惚れ込み、弱冠22歳でこの名門チームに迎えられます。
このときの彼には輝かしい未来が開けていたように誰しも(本人も)思ったことでしょう。
実際、マニュファクチャラーズ選手権ではロレンツォ・バンディーニと組んでフェラーリP4を駆りデイトナとモンツァで優勝、幸先のよいスタートを切っています。
しかし、これが彼の人生を大きく狂わせる破滅の始まりだったのであります。ベンベンベンッ!
しかも、同チームには3人のドライバーを抱えていてエイモンは4番手扱いだったのですが、エースのロレンツォ・バンディーニはモナコGPで事故死、マイク・パークスはスパで重症を負い、ルドビコ・スカルフィオッティは御大とケンカ別れしてチームを離脱、と瞬く間にエイモン一人にこの名門チームの期待がかかることになってしまったのです。
(4番手扱いと言っても、パークス、スカルフィオッティを周回遅れにするほどの速さをすでに持っていました。このとき両先輩にブロックされるという大人気ないイジメにも遭っています。)
これは相当なプレッシャーだったと思いますが、アンダーパワーの312V12で3位表彰台を4回ゲットしランキング4位とフルシーズン初めて戦った1年目としては良く健闘しました。
中でも
@アメリカGPでは予選2位から残り12周でエンジンが壊れるまで2位を快走。このときトップのクラークはサスペンションが壊れタイヤを傾けて走っており、そのままいけば十分かわせたレースでした。
これがエイモンが優勝を逃した最初のレースと言えるかも知れません。
翌68年はジャッキー・イクスらを加え、エースとして本領発揮が期待された勝負の年となるはずでした。
F1の前哨戦ともいうべきタスマンシリーズではアンダーパワーなディノを駆ってロータス49Tのジム・クラークと壮絶な戦いを演じてランキング2位、F1本戦への期待が高まる中・・・・・
(注)タスマンシリーズ
当時1〜2月にオーストラリアとニュージーランドを転戦して行われていた2.5Lフォーミュラ・リブレによるシリーズ。
F1ドライバー(ジム・クラーク、グレアム・ヒル、ヨッヘン・リント、ブルース・マクラーレン、デニス・ハルム、ジャッキー・スチュワート、ペドロ・ロドリゲス、ジャック・ブラバム、ピアス・カレッジ・・・などそうそうたるメンバー)も積極的に出走していた。
A68スペイン
初PPスタート、序盤トップに立ち独走するが燃料ポンプのトラブルでストップ。
68モナコ
マシン好調にもかかわらず前年バンディーニが死亡事故を起こしたことからチームが欠場を決める。
B68ベルギー
PPからトップで飛び出すも2周目、モタつく周回遅れ(!)のジョー・ボニエに道を阻まれる間にサーティースのホンダ(その後リタイア)に抜かれた上、ホンダの跳ねた石がラジエターにたまたまヒット!、しばらく2位で頑張るが息絶える。
C68イギリス
このときだけ異常に速かったシフェールのロータスと壮絶なトップ争いをするもリアウィングの位置の悪さからタイヤが異常磨耗して2位に留まる。
D68イタリア
ダンゴ状態のトップグループで走行中、自分のウィング可変用オイルがたまたまタイヤにかかりスピン、サーティースを巻き添えにしてクラッシュ。
E68カナダ
スタート直後からクラッチトラブル。なんとノークラッチで首位独走するも残り17周でミッションが根を上げてThe End。
っと、歯車がかみ合えばチャンピオン争いに加わってもおかしくない速さ(PP3回は本シーズン最多)を見せながら、セカンド・ドライバーのイクスよりも低いランキング9位(イクスはホンダRA302が炎上事故を起こしたフランスGPで1勝をものにし、ランキング4位)に沈みました。
69年、タスマンシリーズで速いが荒いヨッヘン・リントのロータス49Tを下して念願のチャンピオンを獲りましたが、F1の方は新マシンが前年より出来が悪く苦戦を強いられます。
それでも
FスペインGPでは ロータスのリントがクラッシュのあとスチュワートを大きく引き離して首位を独走しますが終盤エンジントラブルでリタイア、とエイモンらしいレース(泣)を記録しています。
次戦のモナコでも2位走行中にリタイア(優勝はそのとき3位にいたグレアム・ヒル)、オランダではなんとか3位(この年唯一の完走)となりますがどんどん戦闘力が落ち、シーズン終盤のイタリアGP前にチームを離脱してしまいます。
これが彼の人生を狂わせた一番の出来事でした。
この頃開発が進められていたのがあの312Bエンジン。
モンツァデビューを予定し、エイモンも期待していましたが開発が遅れに遅れた上、テストではクランクシャフトが折れるなど重大なトラブルの連続、挙句はテストベンチで爆発したとあっては、「もういい加減にしてくれ!」と思っても無理はありません。
このときフェラーリに残っていれば、と言うのは簡単ですが、このエンジンがあの名機に成長するとはこのとき誰も予想していなかったでしょう。
翌年戻ってくるジャッキー・イクスをエースにしようというチームの方針に反発したとの憶測もありました。ちなみにエイモンはテスト嫌いのイクスを快く思っていなかったようです。
この年、前述のタスマンシリーズの他、F1の合間を縫って行われるマニュファクチャラーズ選手権にはフェラーリ312Pで、CAN-AMシリーズにはフェラーリ612で出走、312Pではデビュー戦のセブリングでの2位、CAN−AMでも当時敵なしのマクラーレンM8Bに唯一対抗しましたが2位が最高とこちらでも戦闘力の劣るマシンで健闘したものの勝利はつかめず。超過密スケジュールもあいまってフラストレーションが頂点に達した末のチーム離脱でした。
その後70年マーチ、71〜72年マトラと渡り歩きますが、エイモンの不運はさらに続きます。
どちらのチームも移籍直後はフロントロウに並んだりノンタイトル戦(注)で優勝を飾るなど幸先の良いスタートを切る一方、前チームはニューマシンの調子が出ず一瞬移籍は成功したかに見えましたがシーズンが進むにつれエイモンのマシンは急激に戦闘力を失っていきます。エンツォ・フェラーリがニキ・ラウダ以上と評価するほどテストドライバーとしても高い評価を得ていたにもかかわらず・・・・。
(注)60〜70年代はF1のノンタイトル戦が年に数戦行われていました。
エイモンがマーチに移った直後はシルバーストーンのノンタイトル戦(2ヒート制)で同じマーチを駆るスチュワートを抑えて優勝、マトラ移籍直後もアルゼンチンGPで優勝していますが、これもノンタイトル。アルゼンチンは翌年からタイトル戦になります。あぁ・・・・。
G70ベルギー
このときだけ異常に速かったBRMのロドリゲスを予選ポールタイムを上回るファーステスト・ラップを出して追いすがるが一歩及ばず2位。
その後はロータス72、フェラーリ312Bが調子を上げ、フランスGPでリントに次ぐ2位となった他は優勝争いから遠ざかっていきます。
H71イタリア
PPスタート、中盤の混戦を抜け出し、単独トップをひた走るが、ヘルメットのバイザーが飛んで(ありえん!)ピットイン、6位。あぁ・・・。
ちなみに優勝は生涯ポイント10P(優勝1回6位1回のみ)、このときだけ異常に速かったピーター・ゲシン。あぁ。あぁ・・・・。
(ピーター・ゲシンのラップリーダーは生涯3周!エイモン183周! ゲシンに恨みはありませんが・・・・あぁ・・・)
I72フランス
PPから完璧な走りでトップ独走もタイヤのパンクでピットイン(マトラのホイールはセンターロックではないのでタイヤ交換にひどく時間がかかる)、現在に語り継がれる怒涛の追い上げを敢行するも3位。あぁ・・・あぁ・・・あぁ・・・。
このフランスGPはただの1敗ではありません。
勝てるドライバーというのは歯車がきっちり噛み合った生涯最高のレース、いわゆる神がかり的なレースというのがあって、それをモノにしてきた、ということが多い(1勝2勝ドライバーのシフェールもロドリゲスもゲシンもベルトワーズも)ものですが、このフランスGPがまさにそれであり、長年の不遇が報われるべきレースであったはずなのです。
ここでちっぽけな小石ひとつで勝ちを落としたことによって、「もうエイモンは勝てないだろう」と誰しもが思ったのではないでしょうか。
この年でマトラはF1から撤退、予想どおりエイモンにまとわりつく疫病神を恐れてか、トップチームからの声はかからず、非力なテクノ、BRMなどからの出場ゆえ、トップにからむ活躍はできなくなっていきます。
ついには74年自らのチームを立ち上げますが、誰が見ても成功しそうにないのは明らかで1年と持たずに崩壊してしまいます。
(このころ、フェラーリにエイモンを呼び戻そう、という動きがあったようですが、結局これもお流れとなってしまいました。その後に加入したのがニキ・ラウダ・・・・・・。あぁ・・・・・。)
それでも、76年スウェーデンGPでは弱小エンサインN176を駆って予選3位、決勝でもハント、ラウダらを抑えて6輪ティレル2台(このレースで1-2フィニッシュ)に次ぐ3位を走ると言う輝きをみせています。(ここでもステアリングのトラブルでリタイア)
好調さを取り戻したかに見えたエイモンですが、この年のドイツGPでラウダの事故を目の当たりにしたのを機に引退を決意、ポールポジション5回、トップ周回数183周という未勝利ドラバーとして今も破られることのない珍記録を残して静かにサーキットを去りました。
エイモン引退はほとんど報道されず、F1選手権inJapanに彼の名がないことから私はその事実を知りました。
引退したことより報道されなかったことの方が悲しかったな。
それにしても上記紹介した10レース全て勝てたとは言いませんが、首位独走から脱落した5回のレースを含め少な目に言っても2〜3勝はしていてもおかしくない、というか1勝もしていないということの方が不思議です。
1勝でもしていれば、別の未来が開けていたのではとも思えます。
マウロ・フォルギエリをして「ジム・クラークと同じくらいの才能を持ったドライバー」、ジャッキー・スチュワートも「最も優れたライバル」、フランコ・リニも「F1レーサーとして必要な素養を彼ほど見事に備えたドライバーはいない」と評価しているくらいですから、1勝して勝ち癖をつければチャンピオンも夢ではなかったはず。
ドライビングはスムースで激しい走りではありませんから、たとえて言うならクラークとは言わないまでも贔屓目なしに見てもフィッティパルディ、ピケあたりと比肩できるドライバーではなかったかと思います。
どう考えてもジェームス・ハントやアラン・ジョーンズやケケ・ロズベルグやデイモン・ヒルがエイモンを上回っているとは思えない。
1勝のアレジ、、ニルソン、ブランビラ・・・2勝のハーバート・・・、3勝のフィジケラ・・・、4勝のアーバイン、・・・・・9勝のバリチェロ・・・・、13勝のクルサード・・・・あたりでは全く役者不足で比較にもなりません。
運に恵まれて勝ったドライバー(いわゆるタナボタ優勝)もいれば運があれば勝てたかもしれないドライバーもたくさんいます。
エイモンの場合は、タナボタでしか勝てないドライバーではなかったのですから何も幸運である必要はなかったのです。
運があれば勝てたドライバーではなく、不運があまりにも多すぎて勝てなかったドライバーということができるでしょう。
エイモンに比較的近いドライバーをあえて上げれば大負けに負けてジャン・ピエール・ジャリエあたりかな。
彼にはチャンスが少なすぎたのでなんとも言えませんが。
さらに悲しみが増すのがエイモンのセカンドドライバーが翌年他チームに移籍して優勝している、ということです。
●69年 イクス(前年1勝、ランキング4位、エイモンは前述のとおり・・・)
ブラバムで2勝
●70年ロドリゲス(前年エイモン4P(3位1回)、ロドリゲス3P(5位、6位各1回)
フェラーリからBRMに移りベルギーGPで1勝(このときの2位はエイモン)
●71年シフェール(前年エイモン23P(2位2回)、シフェール ノーポイント!)
マーチからBRMに移りオーストリアGPで1勝
●72年ベルトワーズ(前年エイモン9P最高位3位、ベルトワーズ ノーポイント)
マトラからBRMに移り豪雨のモナコGPで1勝
さらに、エイモンが抜けたあとののチームは
●マクラーレン 67年は不振なるも68年に3勝(ベルギー、イタリア、カナダ・・・エイモンがトップから脱落したレースばかりじゃないか!)
●フェラーリ 70年 前半イクスが7連続リタイアも後半4勝、新人レガッツォーニまで1勝
●マーチ 71年 ピーターソンが未勝利ながらランキング2位
結果から見れば移籍の時期(マクラーレン→フェラーリ、フェラーリ→マーチ)を間違えた、ということになるんでしょうが、名門フェラーリからオファーがあれば誰だって1年生チームのマクラーレンには留まらないでしょうし、同郷の先輩も祝福して送り出すしかなかったでしょう。また、フェラーリからの離脱も前述のとおり。
移籍すると新チームは不調、前チームは絶好調、
格下のセカンドドライバーは移籍して優勝、
そんな苦しい状況の中でベストとは言えないマシンを駆り
荒い運転によるトラブルでもないし、自らのミスによるアクシデントでもなく、調子の良いときに限ってつまらないトラブル、調子の悪いときは完走、調子がよくトラブルもないときに限って、そのときだけ突然速いドライバーがやってくる、
いやぁ〜、こんな理不尽があっていいいものでしょうか?
「これもレースだ」、では済まない悲しい運命のいたずら。
ちょっと嬉しかったのがF1レーシング2007年2月号の特集「最速ドライバー歴代50傑」にジョディ・シェクター、マリオ・アンドレッティらを抑えの24位にランクされていたこと。
この種の企画は相当無理があってあまり意味のあるとも思えませんが、見る人は見ているんだなぁ。
ハント、ロズベルグ、ジョーンズ、サックウェルより下というのは気に入りませんが、イクス(26位)より上位と言うのが個人的には一番嬉しい・・・・・。
また、かなり以前にモータージャーナリストの西山平夫志氏がベストフェラーリドライバーの8位(本音=偏愛のフェラーリ・ベスト・ドライバー)に選ばれていたこともありました。
むしろ1勝もできなかったことで名を残した名ドライバーと言えるかも。
幸いだったのは、毎年のように仲間が命を落とすような時代の中で最後まで大きな事故に見舞われず、ドライバー人生をまっとうできたことでしょうか。
ジム・クラーク、マイク・スペンス、ロレンツォ・バンディーニ、ルドビコ・スカルフィオッティ、ジョー・シュレッサー、ポール・ホーキンス、ヨッヘン・リント、ブルース・マクラーレン、ルシアン・ビアンキ、ピアース・カレッジ、ジョー・ボニエ、フランソワ・セベール、イグナツィオ・ギュンティ、ジョー・シフェール、ペドロ・ロドリゲス、ピーター・レブソン、マーク・ドナヒュー・・(順不同)こんなにも多くのドライバー達が彼の現役中に亡く
なっているのですから。

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