■ 隣の芝生と青い鳥
オッサンのいしわたも,思春期(厚顔の微青年期)は,いっぱしに「幸福論」や「恋愛論」を読みました。(^^ゞポリポリ
「幸せは感じるものか,探し出したり作り出すものか?」「幸福に到達した瞬間に人は幸福でなくなる?」なんて哲学的な言葉を読んで,頭がクラクラした記憶があります。
しっかし,「幸福の青い鳥を探しに出かけて散々冒険してきたチルチルとミチルが帰宅すると,自宅に青い鳥がいた。」とか,「ザルツブルグの岩塩鉱に小枝を放り込むと……小枝が塩の結晶でキラキラ光る」とかのたとえなら,分かりやすかった記憶です。
まぁ,誤解をおそれず敢えて言えば,「理想化した高望みでフラフラしないで,身近にある幸福をしっかり見て気付け。」ということだと解釈してます。道端で小さい秋を見付けて幸せな気分になるのと似てますね。
そこから
幸せは作るものではなく感じるものだ (注)
という名言が生まれると思います。
(注)巡回中のサイトでの某投稿者のお言葉です。
転載許諾をいただきましたが,クレジット付き
は辞退されたので匿名での引用です。
■ でも夢は高く大きい方が
似て非なるものが,「夢」だと思います。「目標」に置き換えた方が分かりやすいかも知れません。
夢や目標は,感じるものではなく,努力して作り出したり,近付いていくものだということは,ご理解いただけると思います。
ただ,夢を描く,目標に到達する,ということには「幸せ」を感じます。夢を描いたときは,大きい方が,やる気も出るし,そんな理想を求める自分に幸福を感じるときも多いと思います。それは,人生目標も同じでしょう。「星をこの手に抱く」まで行くと,さすがに困りますが,大言壮語に近い夢の方が,気も大きくなります。
■ 小さなものから大きなものへ
ただ,身の回りのささやかな喜びに幸せや良い気分を味わうという体験を積み重ねて,徐々に喜びが大きくなっていくのが自然ですし,感受性も豊かになるのではないかと思います。他人を思いやる気持ちや共感能力と似てますね。
こうしてみると,幸福とはささやかな幸せを感じる積み重ね体験を経て,自分にあった幸福を作れるようになるのではないかと思います。
一足飛びや途中省略のホールインワン狙い・大穴狙いばかりでは,夢(理想)と現実との落差やギャップに返って苦しみますし,第一そんなんでは最終目標の「幸福作り」に到達できる可能性は,まぐれでもない限りゼロに等しいですし,下手をすれば,理想的な幸福の中にいる自分を演じる虚言壁と見栄の塊りになりかねません。
■ 地に足が付いた小さな喜び
メンタルヘルスから言えば,道端で小さい秋を見付けて無邪気に喜ぶ子供の感受性は地に足が着いた理想の幸せです。そして,現実検討能力を知らず知らず身に付けて大人になれます。
あなたが天国ばかり見て
地上を決して見ないなら
あなたはきっと地獄行き
by オースチン・オマリー

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