--------戦争体験は何を物語る…今を責める老兵士-------

「なあ〜おい!戦争なんか やるもんじゃあねえな〜〜 」
「そおさあ〜〜どんなに口で言ったって、行ったもんじゃあなきゃあ〜あのざまは わかんねえやあや〜〜なあ〜おい 」
「あ〜」
「んだ〜〜」
「まあ〜すごかったなあ〜〜 おい 」
口々に思い出すように、紐解いて来て語り始めた。
【ぶらっと繋がり・・・】
http://www.burat.jp/members/writerblog/entry_disp.200609201200-0010084.200609201317-3000010.200711101021-5000135

で…話が纏まり、17日(土曜日)3時に東京から取材に来てくれました。いつも懇意のおじさん達。最初は我が家へ集まった3人集。緊張したような面持ちで、ぼそりぼそりと語り始めました。
記者さんが「初めにお名前と出征時のことを・・・」っと、取材をしながら、ビデオ撮り。慣れないことですが、3人はいつも会っているので、会話も弾み、昔のことを一生懸命思い出すように話していました。お互いの話も聞きながら。
中国へ渡った斉藤さんは、物資の配給を任せられ、中国人とのやり取りで覚えてしまった中国語を今でも話せます。時々我が家に来たとき、今でも話しています。凄い思いをしたことなど話さず物資物流の話を・・・
色々聞いてみて驚きました。
昔の人は偉い!のか?
【お国の為】の一言に、我が命を捧げ戦ってきた!というのです。
15〜22歳いや動けるふつうの人は皆借り出され、内地外地と無数の兵士がこの世を去った。生き残って良かったのか?悪かったのか?今こうして生きていることが不思議くらいの経験をして来た事には間違いないようだ。
今を生き生きと語る。
≪戦争なんか絶対にしちゃあいけないんだ≫っと。
私もある意味の戦争被害者なんです。東京大空襲で焼け野原になり、鉄瓶一個抱えて戦争租界してきた両親の元。住むところを探して父が上京すると”縄張り”が敷かれ、我が家は人の手に。そんな時代の話を小さい時から聞かされた私は火事場を夢をしょっちゅう見ては怯えていた子供時代がありました。母は人の為にどんな事もしました。困った人が居ると自分が困っていても助けちゃう人でした。”撒かぬ種は生えぬ”の精神です。
戦争体験者も同じく、助け合う心を持ち合わせていると感じました。伝えなくては忘れられる”心”です。身内を思い家族を思い涙して我慢した戦争予備軍の訓練は悲惨なものだったと、顔を見合わせて、話していました。
空軍。陸軍。海軍。
歩兵、砲兵、戦車隊、近衛兵、なんだか解らない言葉が飛び交っていました。
もう一人・・食堂の主人が居るからと移動。我が家のハイエ-スにカメラごと…みんなで便乗。ここから2〜3キロ離れた「炭ラ-メン」で一躍有名になった食堂”千歳屋食堂”のご主人なんです。
本名…水沢虎蔵さん(属名:せんちゃん「千太郎」という・・・)
私達夫婦も昔からの古い付き合いで、南牧村の民謡会では名の知れた人なんです。戸籍上の届け出しはあくまでも虎蔵さんですが、お父さんがこの名前を嫌い、千歳屋の「千」の字を取って、せんちゃんと親しまれ呼ばれるようになりそのまま幼少よりの名前を今でも使っているのです。普段はおとなしい温厚な性格のせんちゃんが、戦争体験をゆっくりと語り始めました。
他の3人よりちょっと早かったので、南方から戦地を巡り、蚊の害によるマラリアや潰瘍など健康面に害したという。恰幅のいい立派な体格は好都合で、教育係を命ぜられ…戦地で多くのふるさと村民に出会ったときなど、懐かしさで抱き合って無事を喜んだという…
話しても尽きない体験話は、延々と続いた。語り合いながら、お年寄りに合うように、昔ながらの卵上カツ丼半分と、昔ながらのしなソバを半ラ−麺にしてもらい、サラダと漬物付けておまけに《炭餃子…ここで考案》美味しいんです。炭ラ−メンも有名です。
昔の話とお腹と両方が胸いっぱいになりました。
戦争中思ったことは・・・
「はら いっぺえ〜くいてえとおもったよお〜〜」って。
「いまあ〜よくにもくえねえなあ〜〜。」って。

帰り際…記念写真を撮りました。ほかに2名の人は自作の本を執筆していますので、持ち帰って記録してもらえばと預けました。

「また たまには寄ってはなすべえやあ〜〜な」
久しぶりに、戦争体験を語り合った皆さん!その独特の縁と絆を実感していました。
”戦友よ! いつまでも長生きしようぜ”
せっかく生きて帰ってきたんだから・・・
小塩沢の神戸真一さんは体験記を自ら綴っています。読んでください。
http://www.nanmoku.ne.jp/~sinikanb/

1