谷耕月さんの「心を磨く」と平行して、P.F.ドラッカー著の「プロフェッショナルの条件 −いかに成果をあげ、成長するか−」を読んでおります。
P.F.ドラッカー氏(Peter F. Drucker)は、昨今ビジネス界にもっとも影響力をもつ経営学者・経営コンサルタントの一人で、
この本の内容も、「何が目的か」を明確にし、「プロフェッショナルであること」と「いかに効率的、効果的にその目的を達成するか」の問題解決手法本かとの思いこみをもちながら、
前投稿の底のない釣瓶で水を汲む作業など経営学的にはもっとも非効率・非生産的なことで、
「いかに底のない釣瓶で水を汲むか」を考える必要があるんだろうなと読み進めておりますと
その一章、「なぜ成果があがらないのか」の中にハッとさせられる一節がありましたので、書き残すことにします。
(著作権等で引っかからないと良いのですが・・・・・)
『 私は、成果をあげる人間のタイプなどというものは存在しないことをかなり前に気づいていた。
私がしっている成果をあげる人たちは、その気性や能力、仕事や仕事の方法、性格や知識や関心において千差万別だった。
共通点は、なすべきことをなし遂げる能力をもっていたことだけだった。
外向的な人もいれば、超然とした内向的な人、なかには病的なほどに恥ずかしがり屋の人もいた。 ・・・・・・・・
(中略)
・・・・・・ しかも、成果をあげる人は、タイプや個性や才能の面では、成果をあげない人とはまったく区別がつかない。
成果をあげる人に共通しているのは、自らの能力や存在を成果に結びつけるうえで必要とされる習慣的な力である。
企業や政府機関で働いていようと、病院の理事長や大学の学長であろうと、まったく同じである。
私の知るかぎり、知能や勤勉さ、想像力や知識がいかに優れようと、そのような習慣的な力に欠ける人は成果をあげることができなかった。
言いかえるならば、成果をあげることは一つの習慣である。
習慣的な能力の集積である。
そして、習慣的能力は、常に修得に努めることが必要である。
習慣的な能力は単純である。あきれるほどに単純である。
七歳の子供でも理解できる。掛け算の九九を習ったときのように、練習による修得が必要となるだけである。「六、六、三十六」が、何も考えずに言える条件反射として身につかなければならない。習慣になるまで、いやになるほど反復しなければならない。
(中略)
どんな分野でも、普通の人であれば並の能力は身につけられる。卓越することはできないかもしれない。卓越するには、特別な才能が必要だからである。
だが、成果をあげるには、成果をあげるための並の能力で十分である。』
だから、自分は成果をあげられていないんだ・・・・・

果物が成るが如しだ

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