来年3月に開催の絹文化交流会の準備と、現在すすめている匠ツアーをまとめた本の編集のため、あちこちでかける日々。深谷・と伊勢崎に週末でかけました。

渋沢栄一・中の家の正門から。幸田露伴の碑があります。藍玉と養蚕を生業にし渋沢一族。深谷の郷土史家の方にお会いしました。栄一が富岡製糸場建設担当になったのも、明治政府高官は下級武士ばかりで養蚕のことをしらない者ばかりだったから。農民出身は渋沢しかいなかったそうです。

奥の蔵座敷が初めて公開されていました。

大切なものも収蔵していたので窓には頑強な鉄格子が、

唐紙も当時のまま(明治26年)とのこと。当然型紙職人が彫って刷られたもの。なんでも着物の柄に見えます。こんな小紋も素敵です。

今回の目的はめったに公開されない尾高惇忠の生家を見学すること。ひ孫の方(84歳)が遠方からお越しになり15分ほど生家の思いでをお話されました。冨岡製糸世界遺産登録の盛り上がりで深谷市・本庄市・伊勢崎市も関連企画がもりだくさんの様子で各地で見学会開催がさかんになりました。

尾高は17歳で論語塾を開き、7歳の栄一が通い、その後の人生にも大きな影響を与えたといいます。
渋沢は国家プロジェクトの富岡製糸場開場にあたり、尾高を初代所長として迎えました。
経済人よりも教育者として人を育てることに資していた、高潔な人物でした。
特に埼玉県の養蚕に大きな功績があります。当時禁止されていた秋蚕の飼育に対して、養蚕農家側にたち、国との裁判を応援し援助した功績が大きいでしょう。
尾高はこれがきっかけとなり官営富岡製糸場を去ることになりましたが、春と秋の年2回養蚕ができるようになり、日本経済にどれだけ寄与することになったか。
今当たり前と思うことも先人の努力で勝ち取られたことがどれだけ多いことか。次の世代に何を渡せるのか、自分たちが享受してきた自由を狭まれて渡していいのか。デモもできない萎縮した世の中にしていいのか・・・。

母屋は江戸後期の建物、若き渋沢たちが高崎城乗っ取り計画を相談していた二階の座敷も当時のまま残ります。

明治21年以降につくられた深谷煉瓦の蔵。

川越から深谷、高速道路をつかわずに1時間半でつきました。日曜日だったからか17号バイパスがスムーズでした。今度は小川方面からいくのもありかと。ナビのない車で地図と勘を頼りに近道を探すのが楽しみです。

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