渋沢栄一の大河ドラマで話題になっている深谷へ。明治17年に開通した上野―高崎間の鉄道は、栄一が関わった日本鉄道会社によるものでした。主に群馬、埼玉北部の絹織物、絹糸を運ぶため、そして、深谷の赤レンガも運ぶためにできたといいます。
JR深谷駅は東京駅を模した建物です。東京駅の赤レンガは深谷で作られていたからということで。その赤レンガを作った日本煉瓦株式会社も渋沢栄一が設立した会社です。工場から深谷駅までレンガを運んだ線路が一部保存されています。
深谷駅で待ち合わせをしたのは、渋沢栄一と尾高惇忠(栄一の論語の師匠で富岡製糸場初代場長)の研究家の深谷市文化財保護委員の荻野勝正先生(中央)。なんと尾高の親戚でもあるのです。
そして、横浜歴史資産調査会の米山淳一さん(左)。フジイがシーラクリフさんと作成した
「絹のものがたりWEB」でも横浜の絹文化遺産を紹介して下さいました。米山さんは元ナショナルトラスト事務局長で東京駅丸の内駅舎の保存運動にも関わった方なのです。今でこそ東京のシンボルと多くの人が認識している赤レンガの東京駅の建物ですが、JRはあの赤レンガの駅舎を取り壊して高層ビルにする計画だったのです。保存運動がおこらなかったら、東京駅は今頃、取り壊されて高層ビルになっていたのです。全国の保存運動にかかわった米山さんがいつも仰ることは「景観はその町の結果です」ということ。この言葉は川越にも当てはまります。
今ある景観や歴史的建物は、何もしなくて残っているのではなく、誰かが行動をおこしたから残っているということを、忘れてはいけないとつくづく思います。そしてそれを誰かがしつこく(笑)言い続けないと。
東京駅保存運動はこちらから。
今日の目的地はこちら、深谷市中瀬河岸の名主の斎藤家です。こちらにてシーラクリフさんと待ち合わせ。斉藤家のオーナーはシーラさんの同僚の大学教授。フジイは埼玉県庁の共助仕掛人時代の5年前にから、この斎藤家の建物保存の相談を受けていたのでした。今まで何回か銀行関係、行政、内閣府地域創生関係、地元NPO、建築家、文化財関係者、不動産会社などに見てもらいましたが、ここを活用したいというプレーヤーが見つからずずっと空き家のまま、老朽化が進んでしまいました。R不動産にもアプローチしようかという矢先の3月。機が熟したのか、今まで関わった多くのひとの想いが通じたのか、渋沢栄一のご縁がつながったのか、建物がいよいよ最後の機会だと人を集めてくれたのか、いろんな動きがひとつにつながってきたのです。
この建物を愛するシーラクリフさんと。雨戸をあけるだけで30分かかるし、お互いいつも着物で会っていましたが、斎藤家だけはお掃除できる服装で。

斉藤家は中瀬河岸の名主で40年前には小判が数百枚敷地から見つかりました。幕府への冥加金だったようで、連日テレビでも放送されたそうです。母屋は40年前に取り壊されて、現在残っている建物は「離れ」で明治20年代の建築です。
明治時代の当主、斎藤安雄氏は県会議員、貴族院議員、深谷銀行頭取。武州銀行を設立、頭取を務めました。

渋沢栄一の大河ドラマでも中瀬河岸がでてきます。渋沢や尾高が江戸や水戸へ行くのは、この中瀬河岸から船を利用しました。栄一たちは高崎城乗っ取りのための武器を江戸で買い付け、中瀬河岸から荷揚げをしました。この塀の前を若き日の渋沢が通っていたのではいでしょうか。 (つづく)

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