・高山市内には古い町並みに8軒の酒蔵がある。先日そのひとつが無くなってしまった。いや正確に言うと地元企業への経営譲渡で、蔵とブランドは残る模様。
・昨年もひとつ無くなった。これも四国かどこかの「破綻企業買取業者」が買ってブランドは残り、今でも売っている。どちらも江戸から続く蔵元だった。
・元禄の豊かだった頃、高山には大小60軒も酒蔵があったらしい。これはもちろん米の過剰生産による経済混乱を防ぐためのものだと思うが、貧乏だったと思っていたのに以外と米が取れたのですね。
・その後天保の飢饉で余剰米そのものが無くなりある程度の酒蔵淘汰が進み、明治に入って激減した。
・昭和の40年代くらい、まだ「地酒」などと言う言葉が一般的に使われることの無かった頃、灘から高山までタンクローリーが来て、飛騨の酒を灘に運んでいたらしい。
・灘の大手では各地からそういったOEM供給を受けて売っていたのだろう。「ワンカップ何とか」などというお酒には飛騨の酒が混じっていたのかも知れない。それにしても兵庫からわざわざ交通不便な飛騨まで来るとは驚きである。近くになかったのかそれとも飛騨まで来なければ足らないほど売れていたのか?
・やがて灘でも大規模工場を地元に建てたので地方から供給する必要が無くなった。必然的に飛騨の酒蔵は苦しくなったろう。一時日本酒ブームがあったが、今は焼酎や発泡酒に押されてしまいさらに苦しい。
・先日無くなった蔵元は中堅ながらあまり特色を出せていなかったような感じ。昨年無くなった方は、過剰設備による経営圧迫。酒はナマモノなので、生産調整とかどうやってやるのだろう。大変な仕事だ。
・焼き物は生ものではないのでその点は楽だが、いずれにせよ現在は焼き物界は供給過剰である。酒も、やきものもオリジナル特色を出していかなければいけないことは確か。
・ちなみに江戸・天保時代に小糸焼を復活させたのはおふたかたのパトロンだが、そのお一方は酒蔵の人であった。