昨日気がついたことがある。もちろん井の中の蛙というレベルの話かもしれないが。
民謡問題。なぜ民謡が大衆文化から姿をけそうとしているか。一つの状況が思い浮かんだ。そしてその対策も思い浮かんだ。
昨日、あれこれと自分の尺八演奏を録音してみた。最後に「ええい、民謡でも」と思って黒田節を吹いてみた。2コーラスのみの録音だった。演奏の出来ばいはともかく、それを聴いていて歌ってみたくなった。歌詞を引っ張り出して歌ってみた。歌いすすめて
2コーラスしか録音していないことをまずくやんだ。歌詞は4番まであった。一気に連続で歌いたかったが仕方なく2回にわけて録音を再生してうたいとおした。
「あっ」と思った。おそらく一番以降の歌詞を声を出して歌ったのは生まれて初めてだった。歌詞の意味をじっくり読みくだいてみたのもおそらく初めてだった。
ようするに自分は黒田節にかぎらず、民謡といえば、有名な曲、それもはじめの歌いだしの部分、歌詞もせいぜい一番の初めの部分だけしかしらなかったことに気がついた。
ラジオなどで一生懸命民謡の番組を録音するが、この歌手は上手だなとか、この歌の雰囲気はいいななんていいながら、じっくりその歌の内容までみつめていなかった。
公に公表されているプロの演奏もせいぜい2番くらいまでしか歌っていないので、民謡の本来の詩の内容の全部を聞くことが本来できる環境が少なくなっているのにも気がついた。
そんな 分際で民謡尺八をやっているなどと言っている自分が惨めに思えた。
これから時間を作って、歌詞が7番まであれば7回繰り返して自分の尺八で音を録音してそれに合わせて自分で歌ってみようと思う。また希望する人にはそれをCDにして歌詞とともに配って差し上げてみようと思う。
その民謡が発生した風景を自ら歌ってそのよさを思い描くことができる人が実際に増えてこそ、民謡のよさが広がっていくのだとおもった。
できれば三味線伴奏に尺八を吹きたいけど、手っ取り早くは尺八ソロでいい。その録音をイヤフォンで聴きながら三味線を弾き、それを録音してそれにあわせてまた尺八を吹いたのを録音してみてもいいかもしれないが、そんな手間をかけるなら一曲でも多くの曲を尺八ソロで録音してみたい。老人ホームに配ってみたら喜ばれるだろうか。

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