OGI'S DREAM
偉大なるMr卓球 荻村伊智朗の伝説の数々
--荻村さんの夢--
http://www.world-tt.com/book/b024.html
という本が 卓球王国からでた。
執筆されたのは 織部さん、藤井さん、上原さん。
織部さんには毎週卓球を教えていただいているし、藤井さんには何回かITSでカットを打たせていただいたことがある。
この本には、荻村さんを評する的確な言葉が満ち満ちているし、荻村さん自身の新聞の記事の再録などもある。
この本のことは別途書くとして、荻村さんには健康のために30過ぎてから卓球を再開して以来、池袋のコミュニティーカレッジというところで教えていただいたし、何回か合宿も共もにさせていただいた。
荻村さんのことは 別なHPに載せてあるが、この機会にブログのほうにも転載する。
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荻村先生の思い出 (1) 7/23/02
荻村先生に初めてお会いしたのは、15年程前に、池袋西武コミュニティーカレッジ(コミカレ)の卓球教室に入った時である。健康の為に、昔やっていた卓球を再開したのであった。手にした卓球教室の宣伝チラシには、講師陣、荻村伊智朗、山中教子、木村(旧姓山中)道子他と書いてあったが、ご多分にもれず代先生が来て 代講されるのだと思っていた。ところがである。初日に行って大変驚いた。実際に荻村伊智朗、山中教子、木村(旧姓山中)道子各先生が教えておられるのだ。それもラケットを手に持って、生徒の台を順番に回ってアドバイスを与えておられる。これは普通と違うと思えた。荻村先生は中級をみておられたので、早く中級に上がって見ていただきたいと考えた。
コミカレはどんな経験者でも最初に初級に入れられて「白紙に新しく絵を描くように」ということで基本から始める。エッセンスは「振りの運動」で、体の合理的な使い方、体軸の回転をおそわって、「どんなに年をとっても体に故障がこないように、卓球を長くやりましょう」という訳である。初級の先生は荻村一晃さん(先生のご子息)だった。ショートを一から教えてもらった。結局、そのまま15年以上教室を継続し現在に至っている。
さて、無事に中級にあがって教えてもらえる事になったが、ここで奇妙な事に気がついた。その日の練習テーマを荻村先生が説明する時に先生以外のコーチ陣(6-7人)、特に若手のコーチが非常に緊張しているのである。先生が模範演技をみせて、技の意味合い、コツなどを短く説明された後、織部幸治、井上武弘両コーチが模範プレイをする。その後、各台で生徒が練習するが、コーチは台にどんどん回ってきて、生徒のお相手をするわけだ。そのときも緊張している。特に後ろで荻村先生が見ているときはコーチの緊張が手にとるようにわかる。
あるときコーチがその訳を教えてくれた。「テーマで何をやるかは生徒さんと同じに あの場所で初めて聞くんですよ。下手でもコーチだから、模範演技が出来なくてはいけないし、生徒に教えられないといけない。ですから緊張するのです。」
荻村先生は強烈なオン・ザ・ジョッブ教育をコーチに同時にしていたのである。場合によっては生徒の方がうまく出来てしまう場合もあって、一瞬たりとも気が抜けないというのだ。勿論、卓球に関しては生徒より当然うまくできる事が要求されているのだから。
これにはもっと凄い後日談がある。スクールのテーマは通り一遍のロングとかツッツキ打とかカットとか言うものではなかった。10回を1クールとして、その時々のホットなテーマを取り上げる。それが、直近の世界選手権で話題になったパーソンのバックハンドだとか、ダイレイレイの7色のショートだとか、ペンのバックフリックとかである。先生は世界卓連理事として観戦してきた最新技術を自分でやってみせて(できることが凄いのだが)、素人である我々に先生の教え方で試してみる。世界で最新の技術を世界で最初に教える教室なのだ。コーチも始めて聞く、見る技である事が多い。それをまず素人に教えてみる。
と、どういう訳か沢山の生徒の中には必ず先生の説明でコツを掴んで出来てしまう人が一人はいる。そうすると「素人にできるものが玄人(選手)に出来ない訳がない」という事になる。しばらくすると、先生は全日本の強化訓練でテーマとして日本の代表選手達に講習をするのである。
つまり、我々は実験台でもあった訳だ。同時に、先生は無心でとりくむ時の人間の可能性ということを信じていたのである。
コーチが毎回緊張していたのも無理からぬことであった。
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荻村先生の思い出 (2) 7/25/02
ITTFの理事の時代も、会長になられてからも、忙しい中を教室には可能な限りこられたし、年に一度のITS/コミカレの合同合宿は欠かさず参加された。
彼にとっては肩書き無しでつきあえる我々と無心で卓球する事が唯一の息抜きでもあったのだろう。
先生はしばしば大きなトランクを持って教室にこられた。
「どうしたのですか」と尋ねると、あるときは「教室がおわったら成田に行きます」との答えだったり、「さっき成田につきました。教室に真っ直ぐ来たのですよ」という答えだったりする。
我々は先生のタフさに感嘆するとともに、彼の卓球を愛する気持ちを知らされた。
彼はITTFの会長に就任して1年で70数ヶ国(80以上だったかもしれない)を訪問し、卓球の普及に飛び回った。
1日2ヶ国の訪問ももざらにあったという。
「教室がある時に日本にいられるように日程を組むのですよ」と事もなげにおっしゃっていた。「幸い、ITTFの会長はファーストクラスにのれますので、飛行機で休めばいいのです」といわれる。改めて、会長は無給であること、自分の裁量でどこまでもやれる事に気づかされた。
超人といえども人間である。疲れない訳はない。
教室のついたての陰で体を横たえて休息をとられていたのを思い出す。
荻村さんと言えば「ワープロ」、それが皆の脳裏に焼きついている。
ごく僅かの空き時間にワープロをたたいている。今ならNote-PCなのだろうが--。コーチの時の鋭い顔とは違って、ワープロの時は鼻眼鏡である。 訪問した国のレポート、卓球活性化の構想等 どこにいても取出して書いていた。 緊急の報告が必要と思えば、指導をコーチに任せて、教室の片隅でワープロと格闘されていた。
最後の頃、生徒達は皆荻村先生が癌であることはうすうす気づいていた。しかし先生の壮絶な仕事ぶりは変わらず、皆圧倒されて、ねぎらう言葉もかけにくい程であった。
一生を全て卓球の為につかい、人の2倍も3倍も同じ時間で生きた。
最近のJTTAをみるにつけ、「あと20年荻村先生が生きていたら」という思いが募る。
口惜しさで一杯だ。
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荻村先生の思い出 (3) 7/26/02
先生は酒豪であった。「うわばみ」といっていい。生徒の誰一人として彼の乱れたところを見たものはいない。
但し、彼は決して現役時代には飲まなかった。卓球にマイナスになる事は絶対にしなかった。
先生は我々素人の意見をよく求められた。卓球を活性化するにあたってのヒントにされていたのであろう。
1クールの教室の間に2-3回は「今日は一緒に食事をしましょう」と誘っていただき、10人前後の生徒が押しかけた。
勿論コーチも一緒である。先生自らメニューをさっと決められ注文された。値段の割に栄養価が良いものを中心に選んでおられた。生徒の為にビールを注文してくださるが、決して現役のコーチには勧めなかった。
その席で色々な話しをされる。卓球に限らず、経済、世界情勢、政治に至るまで広い話をされた。
その深い見識、洞察力には正直ビックリした。最初の食事のときにそれが判った。
我々は聞き役に回る事も多かったが、卓球に関して我々の意見を聞かれる事も多かった。
最初に、日本初のクラブハウスをもつ卓球クラブITSを構想されたときも、「皆さんはどういうクラブが良いですか?何をクラブに求められますか?」と皆の意見を参考にされた。
また、楢川村に卓球強化センターを構想されていた時には、「どうやったらコストをかけずに有効な施設がつくりうるか」、建築にまで立ち入って考えをめぐらせておられた。できあがった体育館には各メーカー、各国の卓球台が殆ど揃っていた。選手が海外に行って台で苦労をすることが無いようにとの配慮からである。
我々も合宿のときに利用させて貰ったが、初めてみるヨーラの台、Donicの台など色も形も違っていて楽しんだ記憶がある。今は地の利からからかあまり使われていないのが残念である。
年に一度の合宿の最大の楽しみは中日の荻村先生を囲んでの酒宴であった。
先生は底無しの強さを見せ、卓球を語らせたら止まるところがなかった。コーチも我々も皆聞き入った。
今思えばまだまだ聞いてみたい事が沢山あった。
残念である。
先生は権力の怖さをしり、かつその権力に支配されることなく、しかもうまく利用して卓球の普及に役立たせるということができる稀な人間だった。 日本のスポーツ界には他にはいないであろう。先生は権力の意味というのを熟知していた。権力との付き合いかたを知り抜いていた。彼とサマランチとの付き合いかたはそのようなものだったし、IOCに飲み込まれることなく見事にオリンピックに卓球を加えさせた。卓球ボールのカラー化が、さも「サマランチのアイデア」であるかのように思わせながら---。
さらに、長野にオリンピックをもってくる陰の力を発揮した。
荻村が存命であったなら、大阪オリンピック招致もあそこまで惨敗はしなかっただろう。大阪府の真意が「スポーツ・パラダイス」の美名のもとの「地域開発」にあったとしてもだ。
荻村が持っていたアイデアは形を変えて色々なところで実現している。ラージボールもしかり、卓球のカラー化もしかりである。
最近採択された11本ゲーム、新サービスルールも元をたどれば、地球ユース選手権に端を発する。
地球ユース選手権は今はなくなってしまったが、これも故笹川氏を口説いて実現させたものである。
第1-4回の参加選手には、王励勤、孔令輝、劉国梁、劉国正、馬琳、閻森、秦志戟、蒋澎龍、トウアヒョウ、楊影、王楠、李菊、張怡寧、ボロス、トート、シュテフ、呉尚根、柳承敏、柳智恵、ホーカーソン、田崎、遊澤、木方、梅村、武田、川越、西飯らの名前が見える。今の世界ランク者そのものだ。第4回(1996)では男子は劉国正が優勝、2位王励勤、3位蒋澎龍、女子は優勝が王楠、準優勝が李菊、3位が柳智恵と最近のITTFプロツアーの結果を見るが如くである。
時代のはるか先を行っていたのだ。世界の流れはそれを追っているかの如くである。

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