全集第19巻P148〜
「イエスに依る我等」他4編
明治45年6月10日
1.イエスに依る我等
私達は死んで死ぬべき者ではない。イエスに依る私達は、私達の内に死ぬことなどあり得ない者が在ることを知る。私達は、死ぬべく造られたのではない。不死不滅は人たる者の特性である。そして永生と朽ちない事とは、イエスによって明らかにされたのである。 (テモテ後書1章10節)。
2.四福音書について
(5月6日東京数寄屋橋会堂における講演の梗概)
イエスを四つの方面から見たものが、四福音書である。
イエスをイスラエルの理想、選民のメシヤと見たものが、マタイ伝である。ゆえにその第1章1節に言う、「
アブラハムの裔(すえ)なるダビデの裔なるイエス・キリスト」と。旧約の理想を身に体して顕れた者、それがイエスである。
彼が為したことはすべて、「
預言者に託(よ)りて主の曰ひ給ひし言に応(かな)はせん為め」であった。マタイ伝に従えば、イエスは旧約の律法(おきて)と預言者を廃するために来たのではない。これを廃するためではなく、成就するために来たのである(5章17節)。
イエスを古人の理想の実現として見た者、それがマタイ伝である。マタイ伝は、ことさらにイエスをユダヤ人に紹介するために書かれた彼の言行録である。
イエスを能(ちから)ある神の子として見た者が、マルコ伝である。ゆえにその第1章1節に言う、「
是れ神の子イエス・キリストの福音の始なり」と。
マルコ伝に従えば、イエスの生涯は、奇跡の連続である。その第1章において、既に彼が、カペナウムの会堂において、鬼に憑(つ)かれた人を癒し、次にシモンの岳母(しゅうとめ)の熱病を癒し、終りに癩病患者を潔(きよ)めたこと等、その他、多くの奇跡が書き記してある。
マルコ伝に従えば、イエスの生涯には、勇者が無人の地を行くかのように敵地を過ぎる観がある。マルコ伝はことさらにイエスを能(ちから)の実現であるローマ人に紹介するために書かれた彼の言行録である。
イエスを人の子、人類の理想と見た者が、ルカ伝である。ゆえにイエスの祖先を究めるに当って、ルカ伝はマタイ伝のようにアブラハムで止まらずに、さらに進んでノアに至り、さらに進んでアダムに至る。
いわく、「
其父はエノス、其父はセツ、其父はアダム、アダムは即ち神の子なり」(3章37節)と。
イエスはアブラハムの子であるだけでなく、アダムの子である。ゆえにユダヤ人の救主であるに止まらず、また異邦人の救主であるとは、ルカ伝が伝えようとしたところである。
ルカ伝は、情と愛と憐憫とを重んじたギリシャ人に、イエスを紹介しようとして書かれた、彼の言行録である。
イエスを宇宙の原理、人の良心として見た者が、ヨハネ伝である。ゆえにその第1章に言う、「
太初(はじめ)に道(原理)あり……之に生命(いのち)あり、此生命は人の光(良心)なり」と。
宇宙の原理として働き、人の良心として照る者が、人として現れた者、それがイエス・キリストであるとは、ヨハネ伝が唱えるところである。
ヨハネ伝に従えば、イエスは宇宙的実在者である。マタイ伝が伝えるようなユダヤ人のメシヤであるに止まらず、またローマ人の理想である能力(ちから)の実現者であるに止まらず、さらにまた、ギリシャ人の要求に適う人類の友であるに止まらず、
宇宙の太初から、その造化の原理として働いた者、良心の光として万民各自の心に宿る者であるとのことである。ヨハネ伝によって、イエスは万国の民と宇宙万物とに紹介されたのである。
かくてイエスは、四大伝記によって、世界とその代表的三大国民とに紹介されたのである。回顧的なユダヤ人と、現実的なローマ人と、前進的なギリシャ人と、そして永存的な全人類とは、各自に適したイエスの言行録を供給されたのである。
この四大伝記が在って、イエスは永久に人類の中から忘れられないのである。四福音書は、終にこの世を化して、キリストの国と成さずには止まない。
3.緑陰独語
私を指して、「彼はキリスト信者ではない」と言う宣教師がいる。私は本当にキリスト信者でないかも知れない。私は強いてキリスト信者であると言わない。
私は、キリスト信者でない事を恐れて、キリスト教会に入って、その利益に与ろうとしない。私は、教会や宣教師の飯(めし)は、一粒も食らわない。私は、キリスト信者であることのこの世の利益は、一つも受けていないつもりである。
宣教師と教会信者とは、この事に関して、私について安心してよい。私はたとえキリスト信者でないとしても、少なくとも正直であり、ノーブルであり、男らしくありたいと思う。
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私は、キリスト信者でないかも知れない。しかし私は、聖書の研究者である。私はもちろん、教会の書として聖書を研究しない。もし聖書は特に教会の書であって、人類の書ではないという明確な証拠が提供されるならば、私は今日でも直ちに聖書の研究を止める。
しかし私は、未だかつてそのような証拠が提供されたことを知らないのである。私は、今のキリスト教会とは何の関係も無い書として、聖書を研究するのである。私が聖書を研究することは、私が一人の人間であるという証拠にはなる。しかし、キリスト信者であるという証拠にはならない。
正統教会が擯斥(ひんせき)して止まないルナン、ストラウス、バウル、ハルナック等が、最も忠実な聖書の研究者である間は、私にしても自ら好んで、聖書の研究者であることができると思う。
教会と宣教師とは、私が聖書を研究するからと言って、私をキリスト信者と見做すに及ばない。彼等は宜しく疑いの目で、私を見るべきである。私はここに明白に、私が彼等の一人ではないことを表白する。
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かつて正統教会先輩の一人は、私達無教会者を、「キリスト教会獅子身中の虫」という名で呼んだということである。しかし、その名称は当らないと思う。
彼の目から見て、私達は実に「虫」であるかも知れない。しかし、「
身中の虫」ではない。私達は
教会の中にはいない。
その外に居る。私達は、明白に無教会者であると言う。私達は狼であるかも知れない。しかしながら、
羊の皮を被った狼ではない。
ゆえに彼は、私達を「虫」と称するにしても、身
中の虫と称せずに、身
外の虫と称すべきである。
私達は教会に近寄らない。これから遠ざかる。教会は少し注意すれば、私達から何の害をも被らずに済むのである。
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イエスは御自分を「人の子」と呼ばれた。これは誠に感謝すべきことである。人の子と言うのは、「人」と言うのと同じである。イエスは御自分を単に「人」と呼ばれたのである。
キリスト信者という名称は、イエスが付けられたものではない。イエスは人であった。そしてすべての人は、イエスの弟子であるのである。
必ずしもメソジスト教会、バプテスト教会、組合教会、聖公会、正教会、長老教会、「日本基督教会」等に入って、いわゆるキリスト信者と成るに及ばない。人がもし人らしい人となれば、それで彼は人の子であるイエスの弟子となることができるのである。
聖書にはまた、私のような者をさえ慰めかつ強めるに足る多くの言葉がある。
4.「福(さいわい)なる者」他
(1) 福(さいわい)なる者
キリストがあることを知って、キリスト教会があることを知らず、聖書があることを知って、神学があることを知らず、神という牧者があることを知って、人という牧師があることを知らず、
単純な福音があることを知って、複雑な教義があることを知らず、洗礼式があることを知らず、聖晩餐式があることを知らず、監督があることを知らず、長老があることを知らず、執事があることを知らず、ただキリストと彼の福音とだけがあることを知る者は幸である。
そのような者は、真理の清水だけを汲(く)んで、教義の汚濁を飲まず、福音の利益だけを受けて、教会の害毒を蒙らず、教職の仲介を経ずに、直ちに神の懐に入ることができるであろう。
不幸にも私には、この「幸福な無学」が無かった。私は私の後進者を、神の事にだけ聡(さと)くて、教会の事に関しては、全然無学にしたいと思う。
(2) イエスだけで足りる
私にキリスト教はない。キリストと称えられたナザレのイエスがある。私に教会はない。イエスの弟子の兄弟的団体がある。私に私の信奉する教義はない。イエスの教訓と模範とがある。イエスは私の宗教であって、教会であって、教義である。私は彼以外に何者をも求めない。
5.「その日その時」
其日其時を知る者は唯我父のみ、天の使者も誰も知る者なし。
(マタイ伝24章36節)
其日其時を我は知らず、
然れども知る必ず或る時、
我は面(かお)と面とを合して彼を見、
我が知らるゝ如く彼を知らん事を。
其日其時を我は知らず、
然れど知る必ず或る時、
我は再たび我が愛する者と会ひ、
而(しか)して復(ま)た死あらず哀哭(なげき)悲痛(かなしみ)あらざる事を。
其日其時を我は知らず、
然れども知る必ず或る時、
我が希望(のぞみ)は悉く充たされ、
我が涙は尽く拭(ぬぐ)はれんことを。
其日其時を我は知らず、
我は又之を知らんと欲せず、
我は聖父(ちち)の約束を信ず、
我は安静(しずか)に其日の到るを待つ。
完