全集第21巻P61〜
偉人の戦争観 他
大正3年9月10日
1.偉人の戦争観
ベンジャミン・フランクリンは言う、「
世に未だ曾(かつ)て善き戦争ありしことなし。又曾て悪しき平和ありしことなし」と。
即ち戦争は、どんな名誉をもたらして終っても悪いものであり、平和はどんな恥辱の下に結ばれても善いものであるという意味である。
もしフランクリンが今日生きていて、今回の欧州大戦争を評させるとすれば、彼は言うであろう。「これは、世が始まって以来あった幾多の戦争の中で、最も悪いものである」と。
ウィリアム・ロイド・ガリソン(
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lloyd_Garrison )は言う、「
余の国は全世界なり。余の国人は全人類なり」と。
必ずしも全人類とは言わない。すべての開明人種、少なくともすべてのキリスト教国国民が、彼ガリソンのこの思想を懐くようになった時に、神が造られたこのうるわしい地の上から、戦争は絶対的に絶えるのである。
ナポレオン・ボナパートは言う、「
余は人生を学べば学ぶほど、此(この)一事の、余の確信となりて起るを見る、即ち人は戦争に由て永久的に価値ある何事をも為す能(あた)はざるを」と。
即ち彼ナポレオン翁の確信によっても、戦争によって永久的の平和は来ず、その他の永久的と称すべき善事も、それが何であるかにかかわらず、決してこの世に臨まないとの事である。
哲学者
カントは言う、「
戦争に由りて、縦(よ)し夫(そ)れは勝利に終るとも、正義の問題は解決せられず」と。
即ち、正義を世に行うのが目的であるならば、戦争は無益な労であるとの事である。もし彼カントが今日生きていれば、彼は今の世になお
義戦を唱える者がいると聞いて、その不道理に驚くであろう。
2.イエスの過激
イエスは誠実であった。ゆえに時と場合によっては過激であった。彼は温和一方の人ではなかった。彼は時には怒りもし、罵(ののし)りもした。人に彼は狂っているのではないかと思わせたほど、彼は過激であった。
彼は聖父(ちち)の家が商人(あきうど)に汚されるのを見て、いきどおりに堪えず、縄で鞭を作り、その金を散らし、その台を倒し、彼等を追い出して聖父(ちち)の聖殿(みや)を清められた。そのように聖殿潔清(せいでんけっせい)のためであれば、彼は暴力に訴えることさえ辞されなかった。
彼はまた、偽善者を罵(ののし)るに当って、特に柔和の風を装われなかった。彼は、カラスをカラスと呼び、鷺(さぎ)を鷺と呼ばれた。
「
噫(ああ)汝等禍(わざわ)ひなる哉、偽善なる学者とパリサイの人よ」と、また「
蛇蝮(まむし)の類よ、汝等いかで地獄の刑罰を免(まぬ)かるゝを得ん乎」と。人を罵る言葉に、これよりも過激なものはない。
しかもイエスは、時にはそのような言葉を発して、少しも憚かれることはなかった。彼はよく愛されたので、時にはよくお憎みになった。エホバの家の熱心が彼を食らったとあるように、彼は時には憤怒の焔で己が身を焦がされた。
怒らず、憤らず、時と場合によっては過激になるということのない人は、その内心において不実で冷淡な人である。人の誠実は、彼が稀に発する激怒によって現れるのである。
私の知る範囲において、すべての偉人は過激であった。ルーテルも過激であった。クロムウェルも過激であった。柔和だと称されたワシントンさえ、時には過激な言葉を発して、彼の副官を驚き震えさせたとのことである。まして、人類の王であるイエスはなおさらである。
信者はイエスの弟子である。ゆえに彼は、常識円満を唱えて、当らず触らずの生涯だけを送ることは出来ない。彼は時には怒らざるを得ない。過激にならざるを得ない。
縄によってではなくても、舌によって、あるいは筆によって強い鞭撻(べんたつ)を、虚偽のこの世に加えざるを得ない。過激を恐れて常に平静を保とうと努める者は、イエスの忠実な僕ではない。
3.意力の統一
「
凡(すべ)て自から相争ふ国は亡び、凡(すべ)て自から相争う邑(むら)や家は立つべからず」(マタイ伝12章25節)とある。自己の分裂ほど、勢力を殺(そ)ぎ能力を減じるものはない。国は外敵によって衰えるのではなく、内乱によって亡ぶ。
合一は勢力であり、分裂は繊弱である。勢力増進の秘訣は、合一の一事にある。
国がそうである。村がそうである。家がそうである。そしてまた人がそうである。もし人が、その天賦の勢力を統一することが出来るなら、その勢力には、対抗できないものがある。
意志薄弱と言うのは、意力の不足を言うのではない。その散乱を言うのである。それに統一がないことを言うのである。自己分裂の結果として、意力を千々(ちぢ)に分かたざるを得ないので、有り余る意力を有しながら、意志薄弱を歎かざるを得ないのである。
人生は複雑である。その関係は多種多様である。人は神から、人から、自己から、社会から、家から、義務責任を要求されるのである。
彼は、主君に対しては忠でなければならず、父母に対しては孝でなければならず、国家に対しては誠でなければならず、友人に対しては信でなければならない。
そして自己と神とを欺くことは出来ない。忠であろうとすれば孝になれず、孝であろうと思えば忠になれない。神を喜ばせようと思えば、人に喜ばれず、人に喜ばれようと思えば神に逆らう者となる。
「
若し我れ人の心を得んことを求(ねが)はばキリストの僕に非ざるべし」とパウロは言った。神に仕えようか、人に従おうか。また自己の良心に背いてまでも、君父の命に従おうか。
人生には患難(なやみ)が多いが、義務の衝突から来る自己分裂ほどの苦痛(くるしみ)はない。人は二人の主に仕えることは出来ないと書かれているが、実際の彼は、二人どころか、数人または数十人の主に同時に仕えようとしつつあるのである。
こうして彼の勢力は、分たれざるを得ないのである。意志薄弱は当然の結果である。彼はマルタのように饗応(もてなし)の事が多くて、心が入り乱れて、何事をも完全に為し得ないのである(ルカ伝10章41節)。
それではどうするべきか。どのようにして意力の統一を計ろうか。どのようにして勢力の散乱を防ごうか。どのようにすれば、意志薄弱を歎かないようにすることが出来るか。
この問題を解決することが出来れば、人生の最大問題を解決することが出来るのである。
意力の統一、問題はこれである。その実際的解決はどのようにするか。
そう、キリストである。人は自己に死んで、キリストに生きて、そのすべての義務を完全に果し得るのである。
キリストに在って生活すれば、彼は神に喜ばれ、他人と自己とを欺くことなく、真正の意味において国を愛し、忠であり、孝であり、信であり、友であることにおいて誤らないのである。
彼は心を尽し、精神を尽し、意(こころばせ)を尽して、神が遣わされたその独子(ひとりご)を愛すれば、彼は人としての義務を尽くして誤らないのである。
彼が孝を要求されるなら、彼はキリストを仰ぐべきである。彼が忠を要求されるなら、彼はキリストを仰ぐべきである。彼が愛国を要求されるなら、彼はキリストを仰ぐべきである。彼が純正の友誼を要求されるなら、彼はキリストを仰ぐべきである。
そうすればキリストは彼に在って、彼が彼の応じるべきすべての要求に、完全に応じることが出来るようにして下さる。「
汝等我を仰ぎ瞻(み)よ、然らば救はれん」とは、この事を言うのである。
キリストは万全の主である。人は意力を彼に集中すれば、全力を以て万事に当ることが出来るのである。
完