全集第21巻P120〜
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信仰の勝利
戦わずに勝った実例 歴代誌略下第20章解訳
聖書を以てする聖書の解釈
大正3年11月10日
我等をして世に勝たしむる者は我等が信なり。 (ヨハネ第一書5章4節)
諸(もろもろ)の民は騒ぎ立ち、諸の国は動きたり、
神、その声を出し給へば地はやがて融(と)けぬ。
*************
来りてエホバの事跡(みわざ)を看よ、
彼は懼(おそ)るべき事を地に為し給へり、
エホバは地の極(はて)までも戦闘(たたかい)を廃(や)めしめ、
弓を折り、戈(ほこ)を断ち、戦車(いくさぐるま)を火にて焼き給へり。
汝等静まりて我の神たるを知れ、我は諸(もろもろ)の国の中に崇められ、
全地に高く挙げらるべし(とエホバ曰ひ給ふ)。
万軍のエホバは我等の神なり、ヤコブの神は我等の高き楼(やぐら)なり。
(詩篇46篇6節以下)
此後モアブ人、アンモン人、及びマオニ人等ユダの王ヨシャパテと戦はんとて攻来れり。時に或人来りてヨシャパテに告げて曰く「海の彼方(かなた) スリヤより大衆汝に攻来る。視よ、今ハザゾンタマルに在り」と。(ハザゾンタマルは死海の西岸エンゲデなり)。
茲(ここ)に於てヨシャパテ懼れ、面(かお)をエホバに向けて其救拯(たすけ)を祈求(もと)めたり。又ユダ全国に断食(だんじき)を布達(ふたつ)しければ、全国挙(こぞ)り集り、エホバの救拯(たすけ)を祈求(もと)めたり。
即ちユダの一切(すべて)の市邑(まちまち)より人々エルサレムに来りてエホバの救拯(たすけ)を祈求(もと)む。時にヨシャパテ、エホバの聖殿(みや)の内なる新たに設けられし中庭(なかにわ)の前に於てユダとエルサレムの会衆の中に立ちて曰ひけるは、
我等の先祖の神エホバよ、汝は天の神にましますに非ずや。異邦人の諸国
を統(すべ)たまふに非ずや。汝の手には能力(ちから)あり、権威ありて、
何人も汝に抵抗(さから)ふこと能(あた)はざるに非ずや。
我等の神よ、汝は此国の民を汝の民イスラエルの前より駆逐(おい)たま
ひて、汝の友アブラハムの子孫に之を永く与へ給ひしに非ずや。彼等は
此(ここ)に住み、汝の聖名(みな)のために此(ここ)に聖所を建(たて)て言へ
り「刑罰の剣(つるぎ)、疫病、飢饉等の災禍(わざわい)我等に臨まん時は、
我等此殿(みや)の前に立ちて汝の前に居り、我等の苦難(なやみ)の中にて
呼号(よば)はらん。
然らば汝聴きて救拯(たす)け給はん。そは汝此殿(みや)に在(いま)せばな
り」と。
今アンモン、モアブ、及びセイル山の民等(たみども)を視たまへ。往昔
(むかし) イスラエル、エジプトの国より出来(いできた)れる時、汝、イス
ラエルに命じて此民を侵(おか)さしめ給はざりしかば、彼等(イスラエル)
は之を離れて滅(ほろぼ)さざりしなり。
然るに今彼等が我等に酬(むくゆ)る所を視たまへ。彼等は仇(あだ)を以て
恩(めぐみ)に酬ゐんとす。彼等は汝が我等に有(も)たしめ給へる汝の領土
より我等を逐攘(おいはら)はんとす。
我等の神よ、汝、彼等を裁き給はざるや。我等は此(こ)の斯(か)く攻寄せ
来れる大衆に当る能力(ちから)なく、又為す所を知らず。唯(ただ)汝を仰
ぎ瞻(み)るのみ。
と。王、斯く祈りし間に、ユダの人々は、其幼者(おさなきもの)及び妻子と共に皆なエホバの前に立ち居れり。
時に会衆の中にてエホバの霊、アサフの族(やから)なるレビ人ヤハジェルに臨めり。(ヤハジェルはゼカリヤの子にして、ゼカリヤはベナヤの子、ベナヤはエイエルの子、エイエルはマツタニヤの子なり)。ヤハジェル即ち曰ひけるは、
ユダの人々及びエルサレムの市民、並にヨシャパテ王よ、聴け、エホバ
斯く汝等に言ひ給ふ。汝等此大衆の故に懼ること勿れ。慄(おのの)く勿れ。
そは是れ汝等の戦(たたかい)に非ず、エホバの戦なればなり。
汝等明日彼等の所に下(くだ)るべし。彼等はヂツの坂より上(のぼ)り来る。
汝等エルエルの野の前なる谷の口にて之に遇はん。此戦闘(たたかい)には
汝等戦ふに及ばず。
ユダ及びエルサレムよ、汝等は唯進みて立つべし。汝等と共に在すエホバ
の汝等に施し給ふ救拯(すくい)を見よ。懼るゝ勿れ、慄く勿れ。明日彼等
に対(むか)ひて進むべし。エホバ汝等と共に在(いま)せばなり。
と。茲に於てヨシャパテ首(こうべ)を下げて、地に俯伏(ひれふ)せり。ユダの人々及びエルサレムの市民も亦(また) エホバの前に俯伏(ひれふ)してエホバを拝す。
時にコハテの族(やから)及びコラの族なるレビ人等、起立(たちあが)りて声を高く揚げて、イスラエルの神エホバを讃美せり。
斯くて彼等皆な朝早く起きてテコアの野に出往(いでゆけ)り。其の出るに当りて、ヨシャパテ立て曰ひけるは、
ユダの人々及びエルサレムの民等よ、我に聴け。汝等の神エホバを信ぜ
よ。然らば汝等固く立つを得ん。その預言者を信ぜよ。然らば汝等栄ゆ
るを得ん。
と。彼れ又民と議(はか)りて人を選び、彼等をして聖服(せいふく)を着け群衆の前に進ましめ、エホバに向ひて歌を唱へ且つ彼を讃美せしめて曰く、
エホバに感謝せよ、
そは其恩恵(めぐみ)は世々限りなければ也
と。而(しか)して彼等が歌を歌ひ、讃美を始むるに当りて、エホバ伏兵を設けてユダに攻来れるアンモン、モアブ、セイル山の民等を苦しめ給ひければ、彼等は撃破(うちやぶ)られたり。
即ちアンモンとモアブの民等起ちてセイル山の民に対(むか)ひ、悉く之を殺し尽したり。而してセイルの民を殺し尽して後、彼等は相互に滅しあへり。
斯くてユダの人々荒野(あれの)の望楼(ものみやぐら)に到りて敵の群衆を見たりければ、唯地に倒れたる死屍(しかばね)のみにして、一人だに逃れ去りし者なかりき。
茲(ここ)に於てヨシャパテ及び其民、彼等の物を獲んとて来り見るに、その死屍(しかばね)の間に財宝、衣服及び珠玉等、夥(おびただ)しく在りたれば、各自之を剥(はぎ)とりけるが、余りに多くして携へ去ること能はざる程なりき。
分捕物(ぶんどりもの)多かりしに因りて、之を採集(とりあつ)むるに三日を費(ついや)せり。
第四日に民皆なベラカの谷に集まり、其処(そこ)にてエホバに感謝せり。此故に其処を今もベラカ即ち「感謝」の谷と称(い)ふ。
而してユダとエルサレムの人々皆な帰来(かえりきた)り、ヨシャパテ彼等を導きてエルサレムに凱旋せり。そはエホバ彼等をして其敵を滅して歓喜(よろこび)を得させ給ひたればなり。
即ち彼等ひつと琴と喇叭(らっぱ)を合奏してエルサレムに往きてエホバの聖殿(みや)に到れり。神を畏るゝの恐怖(おそれ)、隣邦の民等に臨めり。そは彼等エホバがイスラエルの敵に対(むか)ひて戦ひ給ひしことを聞きたればなり。
斯くて其後、ヨシャパテの国は平穏(おだやか)なりき。そは神、其四方に於て之に安息を賜ひたればなり。
(第1節より第30節まで)
梗 概 (=大略、あらまし)
ユダの東南に境を接する三国アンモンとモアブとマオニは、同盟してエルサレムに攻め上る。ユダの王ヨシャパテは、衆寡(しゅうか)敵せず、抵抗の力がないことを覚り、民に祈祷と断食とを布達(ふたつ)し、その代表者を送って、彼等に王と共にエルサレムの聖殿で、エホバの救拯(すくい)を祈求(もとめ)させた。
王は国民に代わって、熱い祈りを捧げた。エホバはその叫びの声を聴き、群集の間に一人の預言者を起し、彼にエホバの聖意(みむね)を彼等に告げさせられた。
いわく、これは君達の戦いではない。エホバの戦いであると。するとその時、救拯(すくい)の確信が民の心に起り、彼等は未だ救拯に与らないのに、楽人に声を揚げさせて、エホバを讃美させた。
イスラエルはエホバの命に従い、矛(ほこ)を持たずに敵軍に向って進む。彼等は戦おうと思わず、エホバが彼等に代わって戦われるのを拝見しようと思う。
ゆえに彼等は軍楽を奏せず、讃美の歌を歌う。いわく、「エホバに感謝せよ。なぜならその恩恵(めぐみ)は世々限りないからである」と。
そして讃美の声が未だ止まないうちに、彼等は敵軍の間に、大きな擾乱(じょうらん)が起きるのを見た。敵は、何等かの錯誤によって、相互を殺し尽すに至った。
始めにアンモンとモアブとは、一隊となって、セイルの軍に打ちかかってこれをせん滅し、後にアンモンとモアブとは、相互を屠(ほふ)った。そのようにしてイスラエルは、その手を血に染めることなく、その敵を滅ぼし尽した。
イスラエルは、ただ戦場に下って、自ら斃(たお)れた敵の死体から、その携帯していた武器財宝を剥ぎ取るに過ぎなかった。
こうして戦闘は、祈祷を以て始まり、讃美を以て終った。そして四隣の国民は、エホバがその民のために戦われるのを見て、敢えてその境を侵す者なく、ヨシャパテの国は、その後平穏になれた。
注 マオニ人はセイル山の民だとあるから、エドム人であろう。
教 訓
◎
非戦主義というのは、必ずしも絶対的に戦わないということではない。
自分で戦わないという事である。もし戦う必要がある場合には、自分に代わって神に戦っていただくという事である。
「仇(あだ)を復(かえ)すは我にあり」と彼は言われた。実に「戦争は汝等の事に非ず、エホバの事なり」である。戦争の事を全く神にお任せするときに、ここに初めて真の意味における非戦主義が行われるのである。
◎ そして神は、戦われるに当って、敢えて自ら聖手(みて)を下されないのである。彼は敵に自ら己を滅ぼさせられるのである。アンモンとモアブにセイルを打たせ、その後にアンモンとモアブに相互を滅ぼさせられる。
悪人が相結ぶのは、もちろん相愛するからではない。同一の敵があるからである。その敵が取り除かれれば、彼等は必ず相互を屠(ほふ)るに至る。聖書に「悪に抗する勿れ」とあるのは、このためである。
悪人は、抗すれば相合し、抗しなければ互に相食(は)む者である。無抵抗は悪人を斃(たお)すための最良の方法である。私達は神に倣(なら)い、悪に抗せずに、悪に自滅させるべきである。
◎ もし私達に敵を斃すための武器があるとすれば、それは
楽器である。しかも敵愾心(てきがいしん)を鼓舞するための楽器ではない。神を讃美するための楽器である。ひつと琴と喇叭(らっぱ)とである。
「エホバに感謝せよ。そは彼の恩恵(めぐみ)に限りなければ也」と声を揚げて歌う時に、その声を助けるための楽器である。
信者は、鬨(とき)の声を揚げて敵に向うべきでない。神を讃美しながら進むべきである。敵の要塞を壊すに当っても、ヨシュアがエリコの邑(まち)を陥れた時のように、ただヨベルの喇叭を吹きながら、神がその石垣を壊されるその時を待つべきである(ヨシュア記第6章を見よ)。
◎ 自ら剣を抜いて敵に向う者は、キリスト教国ではない。もし真の意味においてのキリスト教国があるとすれば、それはヒゼキヤ王の下のユダ国(イザヤ書36、37章)のようなもの、または私達がここで学んだヨシャパテ王の下のユダ国のようなものでなくてはならない。
ドイツ民族の文化を守るために剣を抜いたと言うドイツ国は、もちろんキリスト教国ではない。また欧州の自由を守るために剣を抜いたと言う英国やロシアもキリスト教国ではない。
殊に神に戦勝を祈るに至っては、言語道断と言う以外にない。英独露墺、みな悉く大きな偽善国である。明白な非キリスト教国である。
完