第6章 不治の病にかかった時
身体髪膚を私は父母から受け、鉄石の心臓鋼鉄の筋骨を有する私は、神の像と精とで造られて世に出た。
私にはアダムの無死の身体はないにせよ、アポロの完全に均整のとれた身体はないにせよ、私が父母から授かった身体は、今日私が有する身体ではなかったのである。
私に永世にまで至るべき肉体はなかったが、私は百年の労働と快楽とに耐える霊の器を有していた。見上げるばかりの千尋の谷をよじ登ることもできたであろう。伏し見つつ、片手で大海原を渡ることもできたであろう。
鷲のような視力で、天のはてまでも洞察できたであろう。虎のような聴神経で小枝を揺らすそよ風を判別することができたであろう。
私の胃には、消化できない食物はなく、私の肺は、高山の頂上にまで登っても、私に疲労を感じさせず、私が目覚める時は、英気が私に溢れて、喜びの声を上げさせ、私は床に就くとすぐに熟睡に落ち、丸太のように無感覚になった。
山を抜き通すほどの強大な力、世を覆うような壮大な気を私は有していた。そして今はそれを有していない。
この快楽の世界も、病んでいる私にとっては、一つの用もない。存在は苦痛の種であり、私が死を望む様は、労働者が夜の来るのを待つのに似ている。
梅花は香を放っても、私には益はない。鶯は恋歌を奏しても、私は何も感じない。身を立て道を行い名を後世に遺す希望は、今は私には全くない。心を尽し力を尽くして国と人とを救う快楽も、今は私にはない。
詩人ゲーテは言った。 Unnuetz sein ist Todt sein. (不用であることは死んでいることである)と。私はいま、世に不用であるだけでなく、私の存在はかえって世を悩ますものである。
私がもし他を救うことができないなら、私は他人を煩わさないようにすべきである。ああ恵みある神よ、一日も早く、私にこの世の生を終わらせて下さい。私が今あなたに望むことは、ほかにはありません。死は、私にとっては、最上の賜物です。
如何なれば艱難にをる者に光を賜ひ、
心苦しむ者に生命を賜ひしや、
斯かるものは死を望むなれども来らず、
これをもとむるは蔵(かく)れたる宝を掘るよりも甚(はな)はだし、
もし墳墓を尋ねて獲ば
大ひに喜び楽しむなり、
其道かくれ神に取籠(とりこめ)られをる人に
如何なれば明光(ひかり)を賜ふや、
顧みれば、過ぎた年の私の生涯、私の失敗、私はこれを思うと、ほとんど堪えられないほどの後悔を覚える。ああ夜の来る前に、私は私の仕事を終えなかったことを悔いる。
私の過去は砂漠であった。無益に浪費した年月、思慮なく放棄した機会、犯した罪、為さなかった善、―――私の痛みは肉体だけに止まらないのである。
シオンの戦いはたけなわなのに、私は用のない兵(つわもの)なので、独り内に座して、汗馬が東西に走るのを見、矢叫びの声、太鼓の音をただ遠方に聞くに過ぎない。
私には世に立つ望みが絶えたのである。また未来に持ち行くべき善行もない。神はそのような不用人間を必要とされない。ああ実につまらない一生ではないか。……………。
私が絶望に沈もうとした時、永遠の希望はまた私を力づけてくれた。キリストは希望の無尽蔵のようだ。彼によってのみ、枯れ木も再び芽を出すであろう。砂漠も花を生じさせることができるであろう。
預言者エゼキエルが見た枯れた骨が蘇生したことは、私たちが目撃する事実である(エゼキエル書§37)。
不治の病にかかった時の失望は、二つである。即ち、私は再び回復することが出来ないであろう。私は今は廃人なので、世に用のない者となったと。
一、 君はどうして君の病が不治であると知っているのか。名医がすでに君に不治の宣告を申し渡したから、君は不治と決めたのか。
しかし、君は不治といわれる病が全治した例が多くあるのを知らないのか。君は、19世紀の医学は、人間という奇跡的な小天地をことごとく究め尽くしたものと思うのか。
近来の医学の進歩は、実に驚くべきである。しかし、医者は造物主ではないのである。時計師だけがことごとく時計の構造を知っている。神だけが、ことごとく君の体を知っているのである。
殊にこの診断が疎漏な時代に当たって、私たちは容易に失望すべきではないのである。生気は天地に充ち満ちて、常に腐敗と分解とをとどめつつあるのである。
医師がことごとく私を捨てるなら、私は医師の医師である天地の造主(つくりぬし)の許に行こう。彼に、人知の及ばない治療法と薬品とがあるであろう。生命は彼より来るものであるから、私は真に生命の泉に至って飲もう。
医学の進歩と同時に、人類が医学を専ら信じるようになり、医学が及ばなければ、人力も神力も及ばないところだと見なすに至ったのは、実に人類の大損害と言わざるを得ない。
私たちはもちろん、昔の本に書かれている奇跡的な治療が、今日でも存在するとは信じていない。屋根から落ちて骨を挫いた時に、医師のところへ行かずに、祈祷に頼るのは愚であり、不信仰である。
神は熱病を癒すために、「キニーネ」剤を私たちに与えて下さった。この薬があるのを知っていながら用いないのは罪である。局部切断の時に当たって、「クロロホルム」剤は天から与えられた麻酔剤であるから、感謝して受けるべきである。
しかし、私たちは病む時に、常に医者と薬品とに頼ることは、私たちがしてはいけないことである。私たちは病が重くなると、凡庸な医者から去って名医の許へ行くように、名医でもなお私たちを治すことができない時は、神という最上の医師の許へ行くのである。
凡庸な医者が、私の病は不治だと診断する時は、私は絶望に沈むべきか。いや、そうではない。名医の診断は、凡庸な医者の診断が全く誤謬であることを示すことがあるように、全能の神が見られる時は、不治といわれる君の病もまた、治すのが難しい病ではないであろう。
世に信仰治療法というものがある。即ち、医薬を用いずに、全く衛生と祈祷によって病を治す法をいう。
私たちは、ある一派の信仰治療者が言うように、医師は悪鬼の使者であり、薬品は悪魔の供する毒物であるとは言わない。しかし、信仰は難病治療法として、莫大な実効があることを疑わない。
もちろん、私たちがいう信仰治療法というものは、偶像崇拝者が医薬を軽んじて神仏に祈願し、あるいは霊水を飲むような類(たぐい)を言うのではない。
信仰治療法は、身体を自然の造主(つくりぬし)とその法則とに任せて、泰然として心を安め、宇宙に存在する霊気に、自分の身体を平常の状態に復させることにある。
これは迷信ではなく、学術的な真理である。殊に医師の言う、不治の病においては、ただこの治療に頼るしかない。
私は、私の病を治すために、方便として信仰するのではない。それは本当の信仰ではないからである。そのような信仰治療法は無益である。しかし、私は信じないではいられないので信じるのである。
見なさい。下等動物が傷を癒すことにおいて、自然法は速やかで実効が多いことを。清浄な空気に勝る強壮剤はなく、水晶のような清水に勝る解熱剤はない。殊に平安な精神は、最上の回復剤であることを知るべきである。
博識による信仰治療法は、病体を試験物のように見る治療法よりずっと優れていることを知れ。
二、 君は廃人になったという理由で絶望しようとしている。ああそうであれば、君の宗教も大多数のキリスト信徒ならびに異教信徒の宗教と同じく、事業教である。君も未だ人類の大多数と共に、事業を君の最大目的とする者である。
事業は人間の最大快楽である。しかし、この快楽を得ることができないといって落胆失望に沈むのは、君がまだ、事業に勝る快楽があることを知らないからである。
キリスト教は他の宗教に勝って事業を奨励するが、キリスト教の目的は事業ではないのである。
キリストは、君が大事業家になるために、十字架上で君のために生命を捨てたのではない。キリストの目的は、君の心霊を救おうとすることにある。
もし世の快楽が、君を神に帰らせるに当って妨害になるのであれば、神はこの快楽を君から取り去られるであろう。神は君の身体と事業とに勝って、君の霊魂を愛されるのである。
君の事業がもし君の心を神より遠ざけるのであれば、神はこの事業という誘惑を、君から取り除かれるのである。人は偶像を崇拝するだけでなく、自分の事業をも崇拝するものである。
なんぢは祭物をこのみ賜はず、
若し然らずば我これをさゝげん、
なんぢまた燔祭(はんさい)をも悦びたまはず、
神のもとめたまふ祭物はくだけたる霊魂(たましひ)なり、
神よなんぢは砕けたる悔(くい)しこゝろをかろしめたまふまじ。
事業とは私たちが神にささげる、感謝のささげ物である。しかし神は、事業に勝るささげ物を、私たちから要求される。即ち砕けた心、小児の心、有りのままの心である。
君は今、事業を神にささげることができない。それだから、君の心をささげなさい。神が君を病気にしたのは、たぶんこのためであろう。
君はベタニアのマルタの心で、キリストに仕えたいと思い、「いろいろのもてなしのためにせわし」(ルカによる福音書§10:40)かったのであろう。それだから神は、君にマリアの心を与えるために、君が働けないようにされたのである。
手にものもたず、十字架にすがる
とは、君が常に歌っていたところであり、その深い意味を知るために、君は今働くことができなくなったのである。
我のこの世につかわされしは、
わが意を世にはる為めならで、
神の恵をうけんため、
そのみむねをばとげん為めなり。
なみだの谷や笑(えみ)の園、
かなしみは来(こ)んよろこびと、
よろこび受けんふたつとも、
神のみこゝろならばこそ。
勇者のたけき力をも、
教師のもゆる雄弁も、
われ望まぬにあらねども、
みむねのまゝにあるにはしかじ。
弱き此身はいかにして、
そのつとめをばはつべきや、
われは知らねど神はしる、
神に頼(よ)る身は無益ならぬを。
小なるつとめ小ならず、
よを蓋(を)ふとても大ならず、
小はわが意をなすにあり、
大はみむねによるにあり。
わが手を取れよわが神よ、
我行くみちを導けよ、
われの目的(めあて)は御意(みむね)をば、
為すか忍ぶにあるなれば。
君は、手足を働かせることができないので、世に貢献できないと言うのか。君は講壇に立て説教をすることができないので、福音を他に伝えられないと言うのか。
君は筆をとって意見を発表できないので、君には世を感化する力がないと言うのか。君は病床にあるので、君はこの世に無用な存在だと言うのか。ああ、そうであれば君は戦場に出ない兵卒は無用だと言っているのだ。
山奥に咲くランは無用だと言っているのだ。海底に生い茂るサンゴは無用だと言っているのだ。
あの岩間に咲くサクラソウは、人に見えないので、彼女は紅衣(こうい)で装わないであろうか。年々歳々人に知れずに香を砂漠の風に乗せ、色を無感覚な岩石に見せる花は何と多いことか。
神は人目の達しない病床の中に、神によって霊化された天使の形を隠しておかれるのである。
静粛な君の優しい顔に浮かぶ、忍耐から来る君の微笑は、千百の説法に勝って力があるものである。くぼんだ君の目の中に浮かぶ推察の涙の一滴には、万人の同情に勝る力がある。やせ細った君の手で握手される時は、天使の愛を私たちが感受する時である。
私は未だ、自分の目で天使を見たことはない。しかし、私が愛した者が病床にあった時、大理石のような容貌(ようぼう)、鈴虫の音のような声、朝露のような涙、―――彼がもし天使でなければ、何をもとに天使を描けるか。
私は、そのようなものが終生病床より立つことができずに、私の傍らにいても、決して苦痛を感じないであろう。彼は日々私の慰めである。私を清め、私を高め、天使が私を守っているという感情を私に与えるものである。
君がもし天使を拝しようと思うならば、行って病に伏せる淑徳の婦人を見よ。彼女は今の世において、すでに霊化して天使となったものである。
(以下次回に続く)