求 安 録 下の部
罪の原理
「リバイバル」にはない。学問にはない。慈善事業にはない。伝道にはない。また世が忘罪術と称するものには、一つとして効果を有するものがない。
私は、平安は得られないものとして、これを放棄すべきか。私の心霊の空虚を充実すべきものは、この宇宙間には存在しないのか。
欲があれば、これに応じる物があるのは、宇宙の恒則(こうそく)であるようである。
欲とは、充実の預言ではないか。ところが、私には、世が満たすことのできない欲がある。人だけは、満足ができない動物なのか。
“O Spirit, that dost prefer
Before all temples the upright heart and pure,
Instruct me, for thou know’st; ……………………
…………………………………… what in me is dark
Illumine; what is low, raise and support;
That to the height of this great argument
I may assert eternal Providence,
And justify the ways of God to men.” ――― Milton
噫(ああ)聖霊よ、爾(なんじ)は諸(すべ)ての宮殿(みや)に勝り
浄(きよ)くして正しき心を受納し賜ふ、
真理は爾に存す、願くは我を教えよ、
…………………………………………
我の暗きを輝(てら)し、我の低きを高め、
此問題の宏遠なるに臆(おく)せず
我をして永久の摂理を講じ、
天道の是(ぜ)なることを弁ぜしめよ。
罪とは何か。私が怒り、私が盗むのは、罪であるに相違ない。しかし、何故に私は怒り、また盗むのか。私はどうして、私が願う善を行わず、かえって願わない悪を行うのか。
悪とは、「
姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴」(ガラテヤの信徒への手紙§5:19〜21)を言うのか。
あるいは、いわゆる肉の行ないというものは、心霊に存する病の兆候であり、病そのものではないのか。私は、個々に私の肉欲と戦うことは無益であることを知った。
それでは、私の敵の本陣は何処にあるのか。
私が、その病根の存する所を知ることができれば、私はこれを除滅することができるであろう。
もし悪そのものは悪行ではないならば、善そのものも善行ではないであろう。物を施すことは、必ずしも善ではないのである。名を広めるための慈善、交際上の寄付金は、慈善に似ているが慈善ではない。
福音を世に伝えることは、必ずしも善ではないのである。野望家の伝道師、口先が巧みで心の曲がった宗教家ほど憎むべき者は、世に存しないのである。
善は精神であって、行ないではない。「
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(パウロ) (コリントの信徒への手紙一§13:3)。
自分が救われるために何をなすべきかという問題は、決して簡単な問題ではないのである。
愛国は善である。しかし、愛国の美徳を養成することにおいて、最も成功したのは誰か。
国史の研究は、必ずしも愛国者を造らない。かの狭隘で、天下の形勢を知らないために国家百年の計を誤らせる者は、自国を中華と見なし、五大洲は貢を皇国にささげるために造られたかのように信じる狂信家ではないか。
爵位や恩給でつなぐ愛国者は、ひとたび緊急な大事が起きれば、義勇を公に奉じ、天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)することはない。
愛国者は、詩人と同じく天性である。国史に通じなくても、愛国者は愛国者である。官として報酬を受けていなくても、愛国者は国のために死ぬのである。国民に捨てられても、愛国者は国を捨てないのである。
愛国は精神であって行ないではないので、これを外部からたたき込むことはできない。愛国が何であるかは、愛国者だけが知っている。世間にありふれている愛国者、礼拝的な愛国者、表面的な愛国者は、博士ジョンソンが言うところの愛国者であり、愛国というものの背後に隠れる悪人である。
愛国者を造ることは困難である。善人を造ることは困難なうちでも最たるものである。
功利主義(Utilitarianism)によって養成した善人は、利益のための善人であり、実に信頼できない善人である。
純粋倫理学によって養成した善人は、消極的な善人である。「ストイック」派の善人のように、自己を守ることは知っているが、他を利することに疎い善人がいる。
古人の善行を暗記して成った善人は、自己の特性を発達させない、オウム的な善人である。
そして真正の善人とは、自分の利益を求めない人(コリントの信徒への手紙一§13:5)、自分のことだけを顧みずに、人のことをも顧みる人(フィリピの信徒への手紙§2:4)、天より与えられた賜物を粗末にしない人(テモテへの手紙一§4:14)である。
自己を損なわずに他を利し、己を潔(いさぎよ)くすると同時に、公衆の幸福と社会の清浄とを計り、古人を学ぶと同時に、自己の特性を開発する理想的な善人になるための道は、何処にあるのか。
ある人が来て、キリストに尋ねた。「
先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイによる福音書§19:16)。すなわち完全に達しようとするなら、どのような善事をなすべきかということである。
そしてキリストの、これに対する答弁は、実に彼の教義の真意を穿(うが)ったものであった。キリストは答えて言った。
Ti me erotas peri tou agathou; eis estin ho agathos. (ギリシャ語聖書)
何故善事に就て我に問ふや善なるものは一つのみ(即ち神なり)
………「自訳」(マタイによる福音書§19:17)
(注) この緊要な一説は、近来聖書学者の注意するところとなり、
私の自訳は、グリースバッハ、ラクマン、チシェンドルフ氏等
が選定したギリシャ語の本文に依るものであり、日本訳の「何
故われを善(よき)と称(いふ)や一人の外に善者(よきもの)はなし
即ち神なり」とは自ずから趣意を異にする(改正英訳 Why askest
thou me concerning that which is good? One there is who is
good. を参照せよ。)
(参考)「新共同訳」:「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。
善い方はおひとりである。」
マルコ伝§10:18、ならびにルカ伝§18:19が同一の記事を載せる
に当たって、旧来の本文と同一の文字を用いるのを見れば、ここ
に引用した改正本文の方が、かえって誤謬ではないかと疑う者が
いるかも知れないが、本文研究学は、マルコ伝とルカ伝の記事を、
筆写した人の思惟から出た誤訂正と判定した。殊に16節における
「善師(よきし)よ」Didaskale agathe から、ラクマン、チシェン
ドルフ、トレゲルス等の学者は、「善」agathe という形容詞を除
いたことを見れば、改正本文の方がますます真に近いことが分か
るであろう。
ユニテリアン教が、キリストが神ではなく人であることを証明し
ようとする場合、常にこの本文に依った、そして言う、キリスト
の明言は、彼自身を善なる者と称せず、神だけを善者と教えられ
たものであることを見れば、キリストが普通の人間であったこと
は明瞭であると。
しかし、私が見るところによれば、たとえ旧来の本文がキリスト
の語であるとしても、ユニテリアン教の注解は牽強付会の説と言
わざるを得ない。キリストはここに自己の特性を弁明しつつある
のではなく、ただ一般の真理を説明しつつあるのである。語勢を
「われ」に置かずに、「何故に」に置いてみなさい。そうすれば、
この本文はキリスト神性論に対する一つの妨害ではないことを知
るであろう。
何を善というのかという問題に対して、キリストは「
善とは神なり」とお答えになった。孝も善である、仁も善である。しかし、孝も仁も善の結果であり、善そのものは神である。神を知るのは、善人となることである。
善を学ぶのは、神に近付くことである。善を求めずに神を知ることはできない。神を知らずに善となることはできない。
宗教と道徳、行ないと信仰とは同一物の両面であり、その一方を去っては、他方を知ることはできないのである。聖書は、善人を「
神と共に歩」(創世記§5:22)む者とした。
神を離れて偶像に仕えるのは、善を去って悪を行なうことである。
すなわち悪を行なうことは、真正の偶像崇拝である。キリスト教徒であれ仏教徒であれ、義を重んじて正を求めるものは、神の子供であり、「イスラエル」の世継ぎである。
(以下次回に続く)
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