立正安国論の概要は、先ず金剛明経、大集経、仁王経、薬師経の四経によって、天変地異が来るのは、世が正に背き、人が悪に帰し、善神は去り、正法が覆(おお)われることにより、悪魔や悪神が来て起こすことを明かし、
次に法然が選択集を破り捨てて正法を覆うものであることを弁じ、法然がただ浄土を冀(こいねが)って、三部経の他の余経を、捨閉閣抛(しゃへいかくほう
:法然の主張を簡略にまとめた語。聖道門・雑行を捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)って、称名念仏一門に帰すること)の四字に付することが甚だしく非であることを喝叱(かつしつ)し、
次に正法を謗(そし)ることが大きな罪科であることを説き、結末に法華を尊信して念仏を投げ捨てなければ天変地異は今よりもいっそう多く来るであろうことを示して、終わるまでを問答体に書き綴ったものである。(幸田露伴氏の「少年文学」における明晰な解剖による)。
これは日蓮の論法、中世時代のヨーロッパ人の論法、すなわち「依法不依人」的論法であり、科学以前の人には、唯一の論法であった。
「是れ我が言にあらずして、釈迦牟尼世尊金口の仏説なり」と。古代の誠実の士は、そのような論法で満足したのである。
日蓮は、自然的災害異変は、日本人が、彼の尊崇する法華経を奉戴しないからだと論定した。そしてこれから「自界反逆難」と「他国侵逼(じんしつ)難」とが、彼らの不信の結果として彼らの頭上に落ちてくるであろうと予言した。
私は彼の中世的教育が、経典と離れて自然的現象を解することを彼に許さなかったことを惜しむ。
しかし、日蓮は全く誤ったのではなかった。学術の進歩を誇りとする私たちは、彼が非科学的であったことを笑うと同時に、彼には私たちが有していない心霊的本能があったことを認めなければならない。
自然界は、心霊界と全く域を異にするものではない。道徳的原因は、自然的結果として現われ、人は客観的現象によって主観的動静を察することができるであろう。この観念は、人類が有する本能の一つであり、科学の進歩は容易にこれを私たちの脳裏から排除することはできない。
私たちの目前の天災で、厳然とした罪悪の結果であるものは、枚挙するに遑(いとま)がない。干ばつと洪水とは、常に相伴って来るものである。そして、二者共に、山林の乱伐に基づくことは、既に誰でも承認するところではなかろうか。
洪水は、人類の貪欲が、他人に率先されることを恐れて、先を争って山野の林装をはく奪することから生じるのである。洪水と罪悪との関係は、実に最も近いものである。
疫病と道徳との関係に至っては、さらに明瞭で緻密なものである。もちろんこれにかかる者は、みなことごとくその犯した罪の刑罰によると言うことはできない。
しかし、社会として国家としてこれに悩まされるのは、厳然とした道徳的原因によるということは、理の最も見やすいものである。
幾多の火災は、不平怨恨嫉妬から起ったのである。幾多の飢饉は、悪政の結果である。人は災害を己に帰せずに天を恨む。しかし災害の多くの部分は、人為によって排除することができるものである。
日本の台風は、その地理学上の位置によるものである。その震災は、その地質的構造に原因がある。私たちは悔改め、懺悔しても、これらの災害を免れることはできないであろう。
地震や台風は、道徳的に避けることはできない。 しかし、道徳的に、その災害を減少させることはできる。
恐怖の念は苦痛の極である。恐怖は不幸を膨張させるものである。恐怖が去ると、人生の苦痛の過半以上は去るのである。
そして恐怖は、罪悪の直接の結果である。
恐怖の民は、災害を最も多く感じるものである。
ゆえに仁政が行われ、民がみなその天職に安んじている時には、彗星が現われても、これに意を留める者はなく、震災に襲われても、損傷を感じることは少ないのである。
太古の昔から、噴火や震災が罪悪に沈んだ社会を警醒した実例は甚だ多い。有名なソドムとゴモラの両市が陥落して、今日の「死海」となったこと、ベスビオス山の噴火によって、ポンペイ、ヘルキュレーニュムが灰に埋まったこと、1755年のリスボン市の大地震、最近ではヨーロッパの賭博の中心地であるリビエラ沿岸の破壊、これらは地動的災害が、罪悪に伴って生じた著明な実例である。
私は天がことさらに積悪の民に災害を下されるのかどうかを知らない。しかし、
天災は刑罰として積悪の民に最も強く感じられるという一事は、明言することを躊躇しないのである。
客観的に、また主観的に、災害は日本人民を悩ましてきた。日蓮は詩人であって科学者ではない(宗教家は概ねそうである)。彼の道徳は仏教である。彼の仏教は法華経である。
それで自然的災害を法華経流布の障害から来たものとしたのである。これは彼の前提から来る自然の結論である。
誤謬は彼の前提にあって、彼の論法にあったのではない。
災害は道徳的原因の結果として見ることはできる。ある意味から言えば、私たちの悔改めのために天が送った警戒と見てよい。しかし、これを法華経流布の妨害から来たものとしたのは、日蓮の偏見である。
あたかもキリスト教徒が、困難の起るのを、その宗教が伝播しないからだとし、プロテスタントがイタリアの震災を、カトリック教徒の跋扈(ばっこ)に帰するようなものである。
立正安国論は、日蓮の深さと狭隘さとを同時に示すものである。「国は法に依りて栄え人に依りて立つ」。これには誰も言い逆らえない。「正法に背けばその国に七難起る」、これはイザヤもエレミヤもルターもカントもソクラテスも承認するところである。しかし、正法(真理)を彼の法華経と同意義としたことは、彼の狭隘と無学と固執とを示したのである。
日蓮の元寇予言は、しばしば非難を受けたものである。その当否は純粋に歴史の問題であり、私がここに論じたいと思うことではない。
しかし、日蓮の性によって、異国の来襲を前視したことについては、私は信じることを躊躇しない。なぜなら彼のように感能過敏な者が、将来を未然に前知した例は、決して少なくないからである。
予知は詩人特有の感能である。詩人ゲーテの感能が著しく発達したことは、彼の記録に残っていて明らかである。
カナダのオンタリオの人で、医学博士R.Mバック氏は、かつて Cosmic consciousness (宇宙的感能)という論議について、彼の研究結果を某学会に報告したが、その報告の中で、彼は人心が発達して、ついに宇宙の事物を未然に知覚し得るようになると述べた。
そして彼はその実例を上げたが、使徒パウロ、シェークスピア、フランスの小説家バルザック (Honore de Balzac)、ドイツの神学者ベーメー (Jacob Boeme)
、イギリスの画工詩人ウィリアム・ブレーク等をその最著明な者としたのである。
スエーデンの神秘的詩人スウェーデンボルグの未来予言がよく的中して、あの学敵である哲学者カントを驚かしたことは、よく知れ渡った事実である。
しかし、僧日蓮の予言と最も似通ったものは、イタリアの宗教改革者サボナローラの予言である。彼は彼の国人の罪悪を責めて、その現罰として他国の侵略があるであろうと予言した。
そして彼の宣言は果たして違うことなく、1494年にフランス王カール第8世の侵攻を見たのである。これは誰もが疑うことのできない、歴史上の事実である。
日蓮、サボナローラ両雄が相似ていたのは、この一事に止まらない。彼らの性格はともに激熱であった。彼らの弁舌は呪語に富んでいた。彼らの誠実さは燃えるが如くであった。彼らの勇気には抗することができなかった。等々。
日蓮を東洋のルターと称するのは間違っている。日蓮は東洋のサボナローラと称すべきである。
日蓮の元寇予言は、比類ない心理的現象ではない。しかし、彼がこれによって法華経尊奉を国民に強いたのは、彼の偏見・妄想と言わざるを得ない。
私が既に論述したように、彼は既に彼の前提において誤っていた。超自然的な彼の天才は、彼の知識的欠乏のために、しばしば歪曲して用いられたのである。
(以下次回に続く)
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