(「過去の夏」その3)
米国の夏
私は米国で、3回の夏を過ごした。そして夏は一夏ごとに有益で記憶すべきものであった。
第1回の夏、すなわち1885年の夏は、私はこれをマサチューセッツ州グロースター市で過ごした。ペンシルバニア州白痴院での8カ月間の労働で、私は非常に疲労したので、私は休養をニューファウンドランドの漁場に求めようとしてグロースター市に行ったのである。
ここにウィルコック氏という水産調査官が住んでいたので、ワシントンにあるスミソニアン学院長ベヤード氏からの紹介によって、ウィルコック氏の助力を借りて、グロースター市の漁業事情を視察するとともに、英仏二国の争論地であるニューファウンドランド漁場への渡航の便を求めようとした。
グロースター市は、マサチューセッツ州の東端アン岬から遠くない所にある。リン、サレム、ベバリー等の有名な市街を経て、ボストンから40マイル余ほど東にある。人口3万、港湾は広くかつ深くて、大船を容れることができる。
市は東西二部に別れ、海岸の至る所に埠頭を設け、漁船の輻輳(ふくそう)は、我が北海道においてさえ見ることができないほどである。私はウィルコック氏の指導によって、その地方の漁業の大略を知ることができ、かつ市内屈指の漁業家の知己を得て、数日もせずに産業上の視察を終えることができた。
しかし、私がこの地に来たのは、漁業関係のことを学ぶためではなかった。私は天職としては、心中既に故国を出る時に、水産業を放棄した。私は人生の大問題に解答を得るために、米国に渡ったのである。
私はローリング・ブレース氏(
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Loring_Brace )の名著「慈善観念発達史」によって、人生の目的は、慈善事業にあると念じていた。ところが、この事業に従事すること8カ月で、私は私の霊魂を救うためには、慈善事業なるものが全く無効であることを悟った。
その結果私の思想界に一大変動が生じ、これを安めなければ、私は私の身の進退をどうしようもなくなってしまった。これが、私が一時ペンシルバニア州における私の恩師の許を去り、産業視察の名の下に、この漁業の町に隠れた理由である。
心中の煩悶と資金の欠乏により、私はニューファウンドランド行きの計画を断念した。
それで私は、グロースター市に留まり、一日3回その付近を逍遥し、あるいは大岩の上に座し、あるいは山の端に煙る磯を望み、あるいは大西洋の怒涛が寄せ来て岩を噛む所に跪いて、祈りかつ叫び、求めかつ天の門を叩いた。
今日では形式的宗教は、私はほとんど顧みず、たびたび宣教師の輩から無宗教者と見られることもあるが、15年前の私は、実に熱心なアーメン的キリスト信者だったので、私は私の人生問題の解釈を求めようとするに当たって、自由に外形上の儀式に頼ったのである。
マサチューセッツ州の丘陵の至る所に、多くのブルーベリーが産している。取ってこれを食べても、誰にも咎められない。
もちろん独り異郷に客となっていたので、訪ねてくる人もなく、読んでは考えて、考えては読む以外に、私の注意を引くものがなかったので、私は主に郊外を散歩し、唇が黒くなるまで天然の果物の美味を味わった。
ニューイングランドでは、夏の気温は時として室内でも100°Fに達することがあったが、空気に湿気がないので、蒸し暑さを感じることは少なく、炎天下でも日覆いなしに郊外を彷徨(さまよ)うことができる。
夏に岩上の祈祷と言うと、何やら苦行のように聞こえるが、私にとってはアン岬付近のこの逍遥は、心には苦悶があったが、身は周囲の天然を楽しみ、少しも苦痛を感じなかった。
こうして異郷に心身の慰藉を求めつつあった時、私の財布は日々ますます欠乏を告げるようになったので、私はこの欠乏を補うために、何かの仕事をしなければならなくなった。
しかし、荒野に慰安を探りつつあった者に、利益のある労働が供せられるべきはずがなかった。もし私の苦悶の声に、経済的価値がなければ、私に取っては、ただの1セントをも得る途はなかったのである。
そこで、私は旅館の一室で、私の悲憤そのままを私の不完全な英語で綴った。私は論文のために2週間を費やした。そして、原稿ができると、これを私の友であるハリス夫人に送り、彼女の校閲と紹介とを得て、世に公にすることができた。
これは幸いにも少しばかり米国思想界の注意を喚起し、「大和魂すなわち日本の精神」を書いた論文であるとされた。
その発刊は、翌1889年2月で、その報酬として金貨40ドルが私の手元に送られたのは、なお一カ月後のことであったが、私のグロースター滞在費は、私の愛国心の発表によって償われ、私はついに他人に負担をかけずに、有益な3週間をニューイングランドの、この景勝地に送ることができたのである。
私は、グロースター市で、何か得たものがあるであろうか。私はその広大な漁業を視察した。タラ、サバ、カジキマグロの保存法を目撃した。私は魚の膠(にかわ)製造所を見学して、大いに学ぶことがあった。漁船の構造、山塩の使用法等もまた、私の深い注意を引いた。
しかし、私がグロースターで学んだ主な事実は、地と海の事ではなくて、天と霊との事であった。
“Sit on the desert stone
Like Elijah at Horeb’s cave alone;
And a gentle voice comes through the wild,
Like a father consoling his fretful child,
That banishes bitterness, wrath and fear,
Saying ‘Man is distant, but God is near’.”
「人気のない岩の上に座った、
エリヤが独りホレブ山の洞窟でしたように。
その時荒野の彼方から優しい声が聞こえてきた。
それは、むずかる子どもをあやす父の声のようであり、
苦しみと怒りと恐れを消し去った。
その声は言う。『人は遠く離れても、神は近くにいる』」 (旅人試訳)
私は海路グロースターを発って、ボストンに向った。そして汽船がその湾口を出る頃、私が幾回となく復唱した聖句は、実にこれであった。すなわち、「人の義とせらるゝは信仰に由て律法の行に由らず」。
私はその秋にアマースト大学に入った。そして私の人生観は、この時から一変した。
米国における第二の夏は、私は米国における私のホームとも称すべき、ペンシルバニア州エルウィン白痴院で過ごした。
夏期試験が終った頃、院長ドクター・ケルリン氏は、しきりに私に手紙を寄こして言った。「君は私の待遇に耐えられずに私を捨ててニューイングランドに行った。しかし、この夏は再び私の許に来て、私とこの地にいる君のすべての友人がどれほど君を愛しているかを見なさい」と。
そして氏は、私が貧しいことを知っていたので、私の帰省を容易にするために、5ドルの金券1枚と、鉄道切符1枚を贈ってくれた。
私は、異郷にあって私を愛するそのような人がいることを思い、心中無限の慰藉に充ちて、学業を終えると直ちに、ニューヨーク、フィラデルフィアを経て、エルウィンにある私の恩人の家に帰った。
院長は、私を彼の実の子でもあるかのように接してくれた。先ず私の健康を問い、私の全身に肉がついたことを喜び、かつ問うて言った。「君はニューイングランドで何を得たか。君は彼の地で私に優る友人がいるのを発見したか」と。
彼は院内の一室を私に与え、私が彼の傍で食事をするようにし、客人が来るごとに私を紹介し、あたかも父がその子の帰省を喜ぶように、私の再来を喜んだ。
ケルリン氏は、私が無為に彼の待遇を受けることに、安んじていられないことを知っていた。そこで彼は再び私に、入院者看護の任を与えた。また慈善事業の調査を命じ、私を教え導くとともに、私が彼の厄介者だと思うことがないように配慮してくれた。
彼はまた、私に少しばかり測地的技術があることを知ったので、彼の管理の下にある、院内300エーカーの地の高低測量を行うために、私をフィラデルフィアに遣わして、金100ドルを投じて、転鏡機を1基購入させた。
私はこの機械を得て、私に最も適した職を得たので、白痴の児童の中から、知能がやや発達している者を二三選び、私の助手にして、善いドクターの指揮の下に、測地の仕事に従事した。
この院に遊んだ日本人には、私の前に田中不二麿氏(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%BA%BF )がいる。また私の後には、留岡幸助氏(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E5%B2%A1%E5%B9%B8%E5%8A%A9 )と滝の川白痴院長大須賀氏がいる。
そして今ではかの院に遊ぶ者は、エルウィン停車場で降りて、左に折れて小渓を渡り、迂回して小山を上って行くのであろうか。この道路は、院長と私との共同設置によるものであり、彼が私の名を永久に院内に留める為だと言って、 Uchimuranian Road (内村道)と命名したものである。
彼は言った。「ローマにアッピア街道があって、その建設者の名は今日に至っても残っている。我が院にもまた、その測量師であった内村の名を留める道路がなくて良かろうか」と。
私はまた、灌水管設置のための下測量を行った。また、院と境を接する黒人の所有地の境界を定めた。その時、黒人は私が黄色人種であることを見て取ったのであろう。彼の持説をとって動かず、院領およそ百坪余を要求した。
私はこのことについて院長に相談したところ、彼はうなずいて言った。「憐れむべき黒人彼は、貧しい。よろしく彼のために譲りなさい」と。強者に対しては動かない私の師は、弱者と貧者とに対しては、このように脆かった。
院長がある日私を彼の事務室に呼んだ。行って彼の命を問うと、彼は言った。「君、今日はフィラデルフィアに行って、この品をウォールナット街の取引所の某に渡せ」と。
私がその物を取り上げて見ると、テキサス太平洋鉄道の額面5千ドル(1万円)の株券であった。私は臍の緒を切ってから、かつて一度もそのような大金を手にしたことがなかったので、心配のあまり院長に告げて言った。「先生はこのような大金を私に委ねられました。私がもしこれを持ち逃げしたら、先生はどうしますか」と。
すると院長は私の顔を眺めて、笑って言った。「いいよ、いいよ。君は人類のためにこれを善用する方法を知っている」と。私は彼の命に従って、ウォールナット街に行き、株券を指名された仲介商に渡した。
そしてその日の夕刻に、私は院に帰ったが、院長は一度も私に株券の成り行きについて尋ねたことはなかった。その際私が持ち帰った受け取り証書なるものは、彼の国における取引書類の標本として、近頃まで私の手もとに残っていた。米国における師弟間の信頼には、実にそのようなものがある。
こうして8月が過ぎて、学校に帰る時が来ると、院長はある日私を事務室に招いて、彼のポケットから10ドルの金券2枚を出し、これを私の掌に押し付けて言った。「これは君の労働の結果です。少しは君の学費の足しになるだろう」と。
私は涙を流しつつ、彼に感謝して、翌日再び彼と彼の家族とに別れを告げて、ニューイングランドの校舎に帰った。
我が敬慕する師よ、エルウィン山上に今や君の面影はなく、ただツタが君の墳墓を飾るだけだと聞いている。君の指導を受けた私は、君の希望に従って、君の事業に従事することができないことを悲しむ。
しかし君よ、東京独立雑誌は、君の思念を伝えられないものではない。君よ、願わくはこの雑誌に現れた私の微弱な慈善的事業を受け入れよ。
米国における第三の夏、私はこれをアマースト大学の寄宿舎で過ごした。当時私は同大学の業を終え、熟慮の結果、神学の深所に足を入れようと決心したので、私の語学上の欠を補うために、私はその夏は労働せず、勉学に勤(いそ)しんだ。
もちろん夏期休業中のことだから、私を助けてくれる教師はいなかったので、私は独りで辞典と文法書に頼ってギリシャ、ヘブライの両言語に通達しようと努めたのである。
開校中は一山に集ってくる衆徒は600人以上いて、鐘の音が鳴るごとに、講堂に出入りする人たちの喧騒は、馬小屋のそれにも似ていた。
教師の悪評、生徒の失敗談、野球場内のかけひき話等で、校山にはどこにも静思黙考の場所はなかったが、今や休校と同時に群衆はことごとく故山に帰り、あれほど広い校内にいるのは日本人一人だけであった。
私は実に2カ月もの長い夏を、松林のリスと共に、校山の上で過ごした。日は東の方ペラム山上に昇り、西の方ベルクシャの山端に、熱紅をみなぎらせて没した。ホリヨーク山脈は私の視線を南に遮(さえぎ)り、トム、シュガーローフは北方に聳えていた。
コネチカットのうねうねとした流れは、西方3マイルを隔てた辺りに、銀盤を延ばしたように輝き、ハドレー、ノーザンプトンの豊かな平野は眼下に連なって、銀河の両岸に耕地は青々としていた。
朝に粗食を終えて、独り緑樹の下に来ると、松林のリスも木の実を抱いて、彼らの朝食に忙しかった。私が楓林の陰に座して、ヘブライ語の動詞転化の復習を始める頃には、彼等は既に枯洞に退いて、真夏の炎熱を避けているようであった。
学に倦むと木陰をゆっくりと歩き、夕日が真っ赤に燃えて西山に没する頃には、大洋を隔てた彼方の故国の事などを思い出し、故郷からの便りを手にしながら、しばしばその安全幸福を祈った。
この夏は、私にとっては、全く勤学修養の夏であった。私はヘブライ語においては、博士グリーンが編纂した Chrestomathy の一部を読み終わり、ギリシャ語においてはヨハネ伝を夢中になって読めるようになった。
他にニューハンプシャー山中に友人を訪れ、ノースフィールドでムーディー氏の夏期学校に出席はしたが、これは共に勤学中の挿話(エピソード)に過ぎないので、ここに掲げることはしない。
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グロースターとエルウィンとアマースト、ロングフェローが歌った海とブライアントが讃(たた)えた森よ、汝等は私の心霊に自由を供したと共に、また私を不幸な者とした。
汝の水で私の足を洗わなかったなら、汝の陰が私を宿さなかったなら、私はいつまでも東洋の君子として、新天地を夢想することなく、新理想を懐くことなく、カタツムリの殻のような愛国心に甘んじ、知者として崇められ、国士として迎えられたであろう。
汝等は私に、大西洋岸の自由を与えて、太平洋岸において、私を不快な者とした。私は汝等に恩を謝すると同時に、また汝等に訴えるところがなくはない。
(以上、9月5日)
「過去の夏」完