(「興国史談」No.19)
第十四回 ユダヤ(中)
三大陸の互接点に位置するパレスチナの地に居を占めた人民は、また一種特別の民であった。彼等をユダ人またはイスラエル人またはヘブル人とも言った。
ユダ人とは、前にも述べたユダ王国の民の名称であって、後にはパレスチナの民一般に付けられた名である。今日でも彼等の子孫は、この名を存して、世界至る所にジューズ(Jews)のいない所はない。
イスラエル人とは、イスラエルすなわちヤコブの子孫の名であることは、誰でも知っている。
彼等の一名をヘブル人と言ったのは、エブル(Eber)またはヘブル(Heber)という人の子孫であったからこう呼ばれたとも言い、あるいは河(ユーフラテス)の
彼方(エベルという語の意味)から来た者なので、この名を命じられたとも言う。パレスチナの国名が一定しないように、その民の名称も幾個もある。
ユダ人はセム人種に属する民である。すなわち今のアラビア人、昔時(せきじ)のアッシリア人と同種族の民である。セム人種の特性については、後で十分に述べるつもりであるから、ここでは言わない。
しかし、セム人種が古代史においていかに有為な人種であったかは、今まで述べた事でよく分かる。バビロニアの骨ともなった者は、この人種であった。またアッシリア王国を作って、八百年もの長い間、文明世界の覇権を握った者も、この人種であった。
そして、フェニキア人が、やはりセム人種であったということであれば、古代二千年間の世界の商権は、一にこの人種の手にあったのである。太古史は即ちセム人種の舞台であって、今ここに述べようとするユダヤ人もまた、その独特の才能と技量とによって、さらに一層の光輝を、この人種の上に加えた民である。
ユダ人は、セム人種の特性を、最もよく代表した民である。その物事に熱心なことは、いわゆる善に強ければ悪にも強く、そして感情的であって、事を為すに当たって、多くは彼等の直覚に依って、理屈に訴えなかった。
そうかと言って、彼等の感情は、黄色人種のそれのように、浅薄なものではなかった。彼等は感じる時には、全身全力をもって感じた。彼等は、日本今日の経綸家と称するもののように、心に一物を感じて、頭脳(あたま)に他事を計画するような、半信半疑の偽善者ではなかった。
彼等の感情と思想とは、常に一致していた。すなわち彼等の感情は、思想を融解するものであって、それが現れて文学となり、宗教となった時には、よく天然の至理にかない、科学的な探究を積まなくても、よく中心的真理に達したものであった。
その性質が感情的であったから、また単一的であった。彼等はギリシャ人とは全く異なって、事物の複雑を避けて、その単純を求めた。すなわち彼等の文物、制度、殖産、工業等は、みな単純であった。これが、ユダ人の文明が今日に至るまで、甚だ解しやすい理由である。
彼等の宗教は一神教であって、彼等の制度は神政(シオクラシー)であった。彼等の文学なるものは、簡易明白な年代記の類でなければ、単語単調な牧羊歌のようなものであった。
別に込み入った哲理が彼等の間に唱えられたことはなく、彼等の美術にしても、ただ生活の必要を満たすだけの便益に止まって、美そのもののために耕されたものではなかった。
物事に熱心で、その趣向が単一であったから、彼等は自ずと狭隘な民であった。彼等は度量江海を呑むというような、東洋の英雄を悦ばす民ではなかった。彼等は、ただ一事を解することができて、二事三事を同時に彼等の胸中に懐くことはできなかった。
彼等は、自己の確信を最大真理であると信じたので、他人の信仰はすべて誤謬であると信じた。彼等はその全心を満足させる真理でなければ、決してこれを信じなかった。
しかし、一度これを信じた以上は、他の真理が来て、その許諾を彼等に要求することがあっても、彼等は断然拒絶して、これを受け入れなかった。神一つ、真理一つ、正義一つ、国一つ、王一つという観念は、深く彼等の心理に刻み込まれたものであった。
狭隘であったから、もちろん彼等は執念深かった。固執は彼等の特質であって、彼等を改宗させる困難は、彼等の間に働く宣教師がすべて感じるところである。彼等が今日世界至る所で嫌われる理由も、全くこのためである。
ユダ人は、どこまでもユダ人である。彼等に特別な宗教があり、特別な習慣があり、特別な趣向がある。そしてこれは、彼等が三四千年以前の彼等の祖先から受け継いだものである。
日新月歩の今日、彼等が文明国に居住して、少しもこれを改めようとしない。この点においては、彼等は甚だ支那人に似ている。ただしユダ人の頑固は、支那人のそれとは異なって、主に主義のための頑固である。
彼等は、何も祖先の遺風だから外形を改めないのではなくて、外形は内容を代表するものであって、外形を変えれば、また内容を改めなければならないという杞憂(きゆう)から、どこまでも彼等の因習を持続するのである。
ユダ人がこういう性質を養うに至ったのは、そもそも何によってであるか。これを知ることは、別に難しくはないと思う。すなわちこれらが、セム人種全体の特性であることは、これをアッシリア人やフェニキア人の歴史に照らしてみても分かる。
一位の神を尊崇して、他の神を排斥する風は、アッシリア人がアッシュールの神に仕え、ツロの市民がメルカースの神を奉じたのと同じことである。
事物に熱心な点では、アッシリア人が軍事に熱心であったのと、フェニキア人が貿易に熱心であったのと、ユダ人が宗教に熱心であったのと、別に異なる所はない。ただその熱心を傾注する目的物に、差があるだけである。
後世に至って、アラビア人がイスラム教の伝播に熱心であったのも、また近年ナイルの上流オムダルマンにおいてスーダン王マージ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Mahdist_War )が長く英軍を悩ませたのも、そのセム人種の熱心の性に至っては、今も昔も同じことである。
しかし、もし熱心が彼等を一神教に導いたものであれば、一神教そのものはまた、これを信奉する民の熱心を養成するのに最も力のあるものである。すべて誰でも、その奉じ仕える者が一つにならなければ、熱心になることができないものである。
忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず、臣の進退これきわまるというようなことは、奉信の目的物が一定しないことから出る嘆声である。
国民の人望も博さなければならず、自家の利益をも省みなければならない。君にも忠でありたいし、国をも愛したいという我が国今日の政治家のような者に、熱心なるものがあるはずがない。
ところが一神教は、人の目的を一定するものである。国も君も、親も兄弟も、名誉も財産も、あるいは我々の生命そのものも、すべて独一無二の神のために愛すべきものと成って、初めて我々の思想は統一されるのである。
多神教の直接の害は、我々の注意を分かつことである。一つの神を認めて、たとえそれは完全なる神ではないにせよ、そのために我々の目的が一つになって、したがって我々の熱心が非常にその度を高めるに至ることは、疑うことのできない事実である。
しかしながら、ユダ人に取っては、彼等の人種的特性と、遺伝的宗教とに加えて、彼等の国民的常性を養成するのに最も力強いものがあった。それは即ち彼等が居を定めたパレスチナの天然であった。
その四方が閉塞して、一小天地を成している国であることは、前回にも述べた通りである。南と東とは砂漠によって限られ、西は大海に面し、北に大嶺を帯びて、ユダ人は他邦人との交際を天然的に禁じられた民であったと言うことができる。
殊にその土地の多分は、豊饒であったから、彼等は別段糧を他邦に仰ぐ必要を感じなかった。外に出るのが難しく、内に足りることが容易な民であって、異様独特の性格を養成し得ないわけはない。
パレスチナの土地気候の激変は、ユダ人の感情を高める一大要因であったことも確かである。感情は、その四囲が単調だと鈍るものである。赤道直下の人民と、北極圏内に住む民とに、知覚が鈍い者が多いのは、全くこのためである。
我々温帯に住む者に取って、四季の循環がどれほど感情の発育を助けるかは、我々には推測することができない。ところが、パレスチナにあっては、その住民は居ながらにして、ほとんど同時に春夏秋冬の変化を目撃しつつある。
朝に「ユダの山地」に酷寒の冬を感じる時、ヨルダン河畔に下れば、半日もしないうちに、インド地方の暑熱に苦しまなければならない。もしエルサレムの南十マイルにあるテコア(
http://en.wikipedia.org/wiki/Tekoa,_Gush_Etzion )の丘上に立てば、四季の景物を一望の内に収めることができる。
西の方、洋々たる地中海に臨んで、ヨッパの港はその白波に覆われるかと疑われ、目を転じて北に向かえば、天気晴朗で一片の霞もない日には、ヘルモン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Hermon )の白い頂を望むことができる。
さらに踵(きびす)を返して東に向えば、断崖直下百三十丈、「死海」の水面は濃紺色を帯び、その西岸にあるエンドル(
http://en.wikipedia.org/wiki/Endor_(village) )の里は、棕櫚とシダとの林に隠れる。鬱葱(うっそう)とした林は、あたかも中夏の熱に眠っているようである。
さらにヘブロン(
http://en.wikipedia.org/wiki/Hebron )を経て南を望めば、アラビア砂漠は灼々(しゃくしゃく)として、天日の下に焼けついている。
これこそ実に、ユダヤの天真詩人であって預言者であったアモスを養成した地であって、彼の感情の深い言葉に徴すれば、彼の周囲が彼をいかに感化したかを察することができる。
すばるとオリオンを造り/闇を朝に変え/昼を暗い夜にし(付近の岩窟の暗闇を形容して言ったのか)/海の水を呼び集めて地の面に注がれる(西方の地中海を望んでノアの洪水を連想して言ったのであろうか)方。その御名は主。 (新共同訳アモス書§5:8、括弧内は内村の解釈)
インド人の高想妙思はヒマラヤ山の雪とガンジスの水とを同時に望んだ者の心に湧いたものであるとは、私がかつて拙著「地人論」において述べた所であるが、ユダ人の感激憂憤は、三大陸の景色を一所に集めたパレスチナの天然が醸造したものと言うことができる。
殊に注意すべきは、その東南方の風土である。ユダヤの山地から東の方「死海」に向って急傾斜をなして下る辺をエシモン(Jeshimon)または「ユダの荒地」と称えた。
南はシュールの砂漠に接し、東は「死海」の熱地に隣接し、渓流は深く石灰質の岩石を刻み去って、至る所に深い亀裂を残している。土地は薄くて、耕作の用に耐えない。ただわずかに春草が春雨と共に萌え出て、炎夏の到来と共にあえなく枯死するのを見るだけである。
パレスチナは小国であるにもかかわらず、そのような無用の地があるのは、天の配剤が当を得ていないものであるなどと、咎める者もあるであろう。
しかしながら、エシモンの荒野が無かったならば、ユダ人はユダ人となることができなかったであろうと思う。これは、ユダヤの憂国者、預言者、詩人たちの修養地であった。彼等は禅堂に立て籠もって禅を修養する代りに、この南北四十マイル余、東西二十マイル余の荒野に逍遥して、宇宙と人生との奥義を考えた。
青々とした春草が、砂漠から吹き来る南風にしぼむのを見ては、彼等は神の震怒(しんど)に触れて消え失せる悪人の末路を思った。
日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。 (新共同訳聖書 ヤコブの手紙§1:11)
日出で熱き風吹きて草を枯らせば、花落ちてその麗しき姿ほろぶ。富める者もまた斯くのごとく、その途の半にして己まづ消え失せん。 (文語訳聖書)
ダビデが彼の詩腸を養ったのも、主にこの荒野における七年間の彼の流浪中のことであった。ヨハネが彼の正義の福音を宣べる前に天火の洗礼を受けたのもまた、この無人寂寞の境にあった時である。
そしてイエス・キリストの四十日四十夜の患苦断食も、ここで為されたものであって、釈迦の悟道が雪山においてあったように、キリストの自覚は、「ユダの荒野」においてあったことである。
単に荒漠であるだけでなく、また甚だ不気味で寂しく、「死海」の浜にソドム、ゴモラの旧跡を望み、朝日がモアブの山頂から出て陰谷から闇夜を駆逐する様を見、身を砂漠から吹いてくる熱風に曝して、独り神と共にあって、天然の事物をその最も悲愴な現象において感得する。
こういう一種の修練所があったので、ユダ人はついに激感激動の民とならざるを得なかった。
そのように感じやすい民が、そのように感動を与えやすい国に住んだので、もしその国の天然が一方にだけ偏ったものであるならば、その民は偏狂の民と化してしまったであろう。
彼と同一人種であるアラビア人が、広漠一百万平方マイルにわたる半島砂漠の中を彷徨ったので、狂信の他に何も取る所のない民となったのも、全くこのためである。
ところが幸いにも、ユダヤの天地は多面的なものである。アラビア風の砂漠もあれば、イタリア風のブドウ園もある。地獄の谷に等しい「死海」の窪地もあれば、また美人の瞳にも似たメロムの湖水もある。
エシモンが乾燥する炎夏の候は、一茎の青草をも留めないのに対して、シャロンの平野(
http://en.wikipedia.org/wiki/Sharon_plain )には、バラの馥郁(ふくいく)とした香りがある。ユダヤの天地は、実に三大陸の精華を集めたものであるから、それがユダ人に及ぼした感化は、実に世界的なものであった。
殊にエジプトを南方に控え、チグリス、ユーフラテス河畔を東方に擁していたので、パレスチナは貿易交通の要衝に当たっていた。ゆえにユダヤ人は、居ながらにして世界の形勢を知ることができる位置にいた。
彼等は単に思想を自国の天然に養っただけでなく、時としてはナイルの氾濫にノアの洪水の小模範を目撃し、ダマスコ、カルケミシュの貿易市場で万国の民族と接した。
彼等の本国は、島国の体をなしていて、ややもすれば排外孤立の精神を醸しやすかった。しかし彼等は、大国の間にはさまって立っていたので、決して世界的な精神を失わなかった。
ユダ人は深く感じ、篤く信じると同時に、また三大陸の事物によって彼等の感情と信仰とを養ったことは、彼等に取って非常に幸福なことであった。
(以上明治33年3月5日)
(以下次回に続く)