「宗教座談」No.2
第二回 真理の事
ある人はまた、私に向かって申します。「貴方は何かというと、すぐに真理真理とおっしゃいますが、いったい真理とはどういうものですか。貴方だけが真理をもっていて、他の人は一切もたないようにおっしゃるのは、何だか少し御高慢のように思われますが、それはいったいどういうものですか」と。
なるほど私が真理をもっていて、他の人がこれをもたないから、私がこれを伝えてやろうというのは、ちょっと聞くと高慢のように聞こえます。しかしこの事は、キリスト教で言う真理とはどういうものであるかを知れば、直に分かることだと思います。
キリストは自身を指して、「我は真理なり」と言われました。または「真理は汝を自由に為さん」と申されました。すなわち、字義上から言えば、真理は真理であって、「我は真理なり」と言われたのは、実に傲慢の絶頂と言わなければなりません。
しかしキリストが言われた真理なるものは、こまごまとした哲学上の真理を言われたのではありません。
元来我々の霊魂を救うことのできる真理は、大学の講演に出席して、教授先生から伝授されるべきものではありません。
キリスト教の真理とは、資金を投じて買うことができる秘伝でもなければ、また学問上の考究を積んで初めて悟ることができるようなものでもありません。
また禅室に結座して幽思を練ったり、あるいは深山に踏み入って、苦行して発見し得るようなものでもありません。
キリストの真理なるものは、至って簡易なものであって、これを知るのは実にたやすいことです。すなわち、これを知る困難は、一に心意の状態いかんに依るのであって、一反心を翻して、こうと悟れば、それで得ることができる真理です。
そういうことですから、私が真理を得たと申しても、私は別段私の学問を誇るのではありません。また私の徳行や、私の修養を誇るわけでもありません。私が申すキリスト教の真理なるものは、つまりキリストがお教えになった人生観であって、それは普通の知能を具えている者には、誰にでも理解のできる真理です。
さて、その真理はどのようなものであるかと言えば、先ずちょっとこんなものです。
(第一) 人はすべて罪人であること、すなわち前にも述べた通り、人はすべて私欲を追う者であって、神の前には不浄不潔な者であるということです。人性堕落説は、もとよりキリスト教が取って動かない説です。
そうは言っても、人には善性がないと言うのではありません。人は元来善に作られたものですから、彼は堕落したからといって、彼の本然の善性を全くは、失いません。彼はいまだに神を追い求める心をもっています。彼は彼の目下の堕落を悲しむ心をもっています。
しかしながら、これらの事は、彼が堕落していないという証拠にはなりません。ちょうど病人が健康を思い、病苦を悔いても、彼が病人でないことの証拠にならないのと同一です。
殊に今我々の観察を、個々の善人と称せられる少数の者の上に下さずに、世界全体もしくは社会一般の上に下すならば、この事はよく分かるだろうと思います。御覧なさい。人も社会もみな徳に進むのは難しくて、悪に退くのは容易であることを。
善人が徳を全うしようと欲すれば、彼は克己して健闘せざるを得ないのに引き換えて、小人が悪をしようとすれば、彼の進路は甚だ容易で、彼に賛同する者は沢山います。
これは何も日本今日の社会の状態だけではありません。世界各国、至る所、どこでも同じことです。人は悪を好んで善を嫌うものであることは、少しでも人生とは何であるかを解した人には、十分了解のできることであろうと思います。
それゆえに、キリスト教ではある哲学者が言うように、悪とは
不完全という意味で、ちょうど小児が歩行できないようなものであるという説は、断然これを排斥します。
キリスト教が唱える罪悪なるものは、道徳的な罪悪であって、決して疾病の類でもなければ、また発育の不完全でもありません。
罪悪とは罪悪であって、意志の許諾を得て行った罪悪を言うのです。
こう申すと、直に抗論が出てきます。「それでは、東西すら知らない無邪気な小児はどうするか。また自らの意志によらずに、悪い境遇の内に成育された者はどうするか。小児の罪を責めるならば、むしろその親たる者を責めるべきである。親の罪や、社会の罪を無辜の者に帰するのは、甚だ残酷ではないか」と。
なるほどもっともらしい理屈です。しかし、こう言われてみると、世には罪人なる者は一人も無くなるように思われます。もし単に境遇が私たちの罪を作ったものとすれば、責めるべきは境遇であって、人ではありません。
しかし、甚だ奇態な事は、かくも罪悪的境遇ができたことです。純情無垢の小児(もしそのようなものがあるとすれば)をその中に投じておけば、自然と無私無欲の聖人に成るような社会は、世界広しといえども、どこにもありません。
日本において無いだけでなく、ヨーロッパでも、米国でも、どこにもありません。あるいは生活に何不自由のない貴族の家庭にあるかと尋ねてみても、決してそうではありません。
無いどころか、貴族の家庭の腐敗は、世界いずれの国に行っても、有名なことです。もし家庭の清潔を言うならば、いっそ貧民の家庭の方が、比較的に良いのです。
昔から、最も暴虐を極めた人は、宮殿の中で育った王侯の家族から出ました。もし境遇が善人を作るものならば、聖賢君子は常に華族紳商の中から出そうなものです。しかし実際には、それはちょうど正反対です。ゆえに人の善悪は、あながちその境遇によるものでないことは、明白なことであると思います。
また小児もそうです。小児に罪が無いとは、事実ではありません。小児は、ただ罪を犯す力が無いだけであって、彼はその力が付き次第、罪悪を犯すものです。
今日帝都に勉学の目的で集合する幾万の青年の状態を御覧なさい。試しに彼等の下宿屋においてなされる談話を聞いてごらんなさい。これを聞くだけでも耳朶(じだ)が汚れると思うことがあります。
しかし、彼等も十六七年ほど前までは、愛らしい小児であったのです。彼等はその当時は、欲を知らない、邪淫を知らない、実に無邪気な小児でしたが、しかしだんだん成長して、種々の能力が加えられて、今の青年となったのです・
往昔ソクラテスは、善人を作る方法として、小児を社会から全く遮断することを、その弟子たちに話したそうですが、それを実行することは、実際にはできないだけではありません。実行しても善人ができないのは、確かであろうと思います。
こう申しますと、また質問が起こります。「それならば人間は、どうして罪人に成ったのですか。もし世に一人も義人がいないなら、義人という者こそ不自然な者であって、罪人は反って自然の者であるではありませんか」と。
もし果たしてそうであるならば、実に大変です。罪悪とは、そもそも避けることのできない天然自然なものであるならば、教育も道徳も何の必要がなく、全く地を払うようになります。
しかし、人類の常識は、そんなことを許しません。彼は罪悪の原因を哲理的には解し得ませんが、罪悪が実在することを認めています。
罪悪を哲理的に説明することができないから、これを矯正することをしないというのは、ちょうど祖先伝来の肺病に、その原因が不明だという理由で、治療を加えないのと同一で、その結果は、両者共に死に終るまでのことです。
さて罪悪の起源については、昔から種々の説があります。ある人は、人類の始祖が罪を犯したことによって、その罪が遺伝して人類全体に行き渡ったのであると申します。
この説は、近世までキリスト教徒の間に普通に行われたものであって、全く根拠のない説とは思えません。
あるいはこの世に存在する人は、この世以外において、かつて生を有した者であって、すでにこの世に臨む以前に罪悪を犯した者であるという説もあります。
これは、ドイツの神学者で、有名なジュリウス・ミュルレル氏(
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_M%C3%BCller )が唱えた説であって、ずいぶん強い議論の上に建てられた説であると思います。
その他種々の学説がありますが、私は今ここに、神学を研究しようとしているのではありませんから、多言を費やして、これを述べ立てません。私はただ、人生の事実ありのままを述べさえすればよいのです。
キリスト教が唱える人類堕落説は、人生の大事実であって、これを疑おうと欲しても、疑うことはできません。これを疑うのは、いたずらに永く迷路に彷徨(さまよ)うことであって、生涯中に回復のできない大損害を招くに至ることです。
(第二) キリスト教の伝える第二の真理は、キリストの降臨です。キリストは神の子です。すなわち彼は、この世以外から降臨された者です。
世には無私無欲、清絶、純絶、自分を後にして、神を前にする先天的な義人が一人もいませんから、神は人類をその本性に立ち返らせるために、特別にこの人を送ったということです。
この事も、ちょっと聞くと何だか変な話のように聞こえます。全人類以上の人がいようとは思えず、またいるとしても彼がこの世に来ようとは思えません。ところが人格以上の性を具えた人が、人類をその堕落から救うために、この世に降臨されたとは全く受け取り難い説のように思えます。
しかしこれが、キリストが尊い理由であって、もし人生にこのような人の降臨がなかったならば、人生とは何と希望の少ないものではありませんか。
ちょうどキリストの降世頃のことでしたが、ギリシャ、ローマの社会の腐敗が、ほとんどその絶頂に達して、政治家も、教育家も、文学者も、哲学者も、各々手を尽くすだけは尽くしてみたが、その腐敗を防止することができなかった時に、あるローマの哲学者が、「もし天の神が直ちに人類の中に下って来られなければ、その救済の希望はない」と申しました。
もし人の力によって、この罪悪の世界が救われるものならば、そのような人はどこにいますか。病人は病人を救うことはできません。不義の人が、他人の不義を治すことができるはずはありません。
社会全体が腐敗している時に、その一分子である人が起って、これを救い得るはずはありません。もし救い得るならば、彼は社会の力によって救うのではありません。社会以上の力、すなわち神の力によって救うのです。
ゆえに社会を救うのに、社会そのものに頼らなければならないのであれば、社会救済事業などということは、とうていできない事です。今の人が、社会の罪を社会に訴えて何らの反応の無いのを見て、失望に陥るのは、全くこのためです。
ゆえにもし、社会以上、すなわち人以上の人がこの世に降りて来ないならば、我々がこの世をいかに憂えても、いかんともすることができません。
その場合においては、我々は独り世を退いて、己を清くするか、そうでなければ悲憤絶望の極、世と奮闘して討ち死にするまでです。そしてこれは、真正の宗教を信じない憂国家が常に取る方針です。
もし全知全能の神が、この世に降りて来て、我々の救済事業を助けてくださるのでなければ、我々としても、あるいは坊主となって深山に入るか、壮士となって自暴自棄して死んでしまうか、二者のうちのいずれかを取らなければならないでしょう。
しかし、この完備した宇宙は、そんな不完全な社会の状態を許しません。もし神が降りて来られる必要があるならば、彼は必ず来られます。
宇宙も人類もすべて愛という土台の上に造られたものですから、人類がその罪悪の結果として、神の降臨を要するようになるならば、神はその栄光の玉座を離れて、人類の中に降りられて、彼等を救われます。
人類とは、それほど貴く、それほど神に愛されるものです。神の降臨とは、人類が仰望するところであって、これを聞いて我々は初めて、満腔の歓声を放つべきではないでしょうか。
こう申しましても、キリストが人類の希望する神であるかないかを定めることは、もちろんできません。仏教信者は、釈迦牟尼こそその人であると信じています。
私は今ここで、神学論に立ち入って、キリスト神性論を述べません。それは他日のこととして、今日はただキリスト教が、真理として世に宣伝するところの真理ありのままについて言ったまでです。
(第三) キリスト教の伝える第三の真理はキリストの贖罪ということです。すなわち、十字架上のキリストの死によって、人間の罪が贖(あがな)われ、この贖罪の恩恵に与った者は、神から無辜の者として認められるということです。
これはまた非常に奇態な教義であって、多くの人々を躓かせるものです。単にキリストを信じない者ばかりではありません。これを信じると言う人々でも、この教義を信じない人が沢山います。
彼等はこう申します。「たとえ神の子であるからといって、他人の罪を負うことのできるものではない。人は各自がその罪を負わなければならない者である。もし他の者がこれを負うことができるならば、世に責任というものは、無くなってしまう」と。
また、ユニテリアン派の人々は申します。「キリストは何も死んで我々の罪を消すために、この世に来られたのではなくて、高尚潔白な生涯を送られ、我々に清い生涯の例を残されて、それで我々を救われるのである」と。
また、「死は人を救うものではなくて、これを救うものは生である」などとも申します。その他キリスト教の贖罪の教義に対しては、種々雑多な異論があります。
しかし、私は未だ、この教義を捨てることができません。なるほど贖罪の教義を取り除いても、キリスト教には他に立派な教訓は残っているに相違ありません。
しかしそうすると、聖書という書は、まるっきり自家撞着の書となってしまいます。それはまだしもよいとして、前に述べたキリストの救済ということが、ほとんど全く実のないことになります。
救済とは、もちろん罪から救われるということです。そして罪から救われるとは、罪を許されるという意味でして、罪を許されるには、これを贖(あがな)わなければなりません。贖われずに許されるような罪は、罪であって罪でないだけでなく、贖わずに許すような神は、神であって神ではありません。
罪とは、世によく言う、「若い時の出来心」ぐらいな、やり損いではありません。罪とは、神が定められた宇宙の大法則を犯したことであって、実に恐ろしいことです。
すべてこの世にあった者は、誰でも罪を犯した者ですから、今また罪を犯しても、それほど恐ろしいことをしたようには思いませんが、清い神の眼から御覧になった時には、世には罪ほど恐ろしい、また汚らわしいものはありません。
神を敬わずに自己を貴び、誇り、怒り、欲に耽り、名利を追い求めて、人は人としての特権を放棄するに至り、その結果として、彼の眼は神の栄光を見ることができなくなり、彼の心は限りない愛を感じることができないようになり、ついには彼の精神は、麻痺して肉体の死と共に消失するに至るのです。
このように恐ろしいものですから、人間はどうしても罪から救われなければなりません。すなわち心の中から罪の念が消えて、我々がその罰を被らないようにならなければなりません。
もちろんそうなるには、我々が悔い改めをしなければなりません。しかし悔い改めだけでは、罪は全く許されません。また実際を申しますと、許されない罪は、悔い改めることができないものです。
罪とその贖いのことは、非常に難しい問題であって、とうていここで十分にお話しすることはできません。しかし、ただ一事だけキリスト信者が疑うことのできないことがあります。それは、
贖罪の事実です。
どのような理由かは、それは神学上の問題としておいて、神の子キリストが我々のために十字架上に贖罪の血を流されたということを聞き、かつこれを信じるに至ると、罪なるものは初めて我々の上には力のないものとなり、
我々は罪を憎み、義を愛し、今日までは何となく遠ざかっていた神を、真に我々の父として認めることができるようになり、生涯が光沢を生じて楽しくなり、死が恐ろしくなくなり、我々の仇敵までが愛すべきものとなり、非常な変化が我々の心中に起こるようになります。
もしこれが、単に迷信の結果であると冷評する人がいるなら、それまでです。しかし、ひとたび贖罪の恩恵を感得した者は、アウグスティヌスのような推理学者でも、グラッドストーンのような博学な人でも、誰でも彼でも、これに勝る真理は、宇宙間にないと申します。
罪というものは、人世に非常に深くしみ込んだ病気であって、これを取り除く方法もまた、容易に人間の学問で解釈し得るものではないと見えます。しかしキリスト教には、確かにこれをその根底から取り除く途があるのです。
なお、この他にもキリスト教が伝える真理は多くありますが、先ず申し上げた三者が、一番大切なものであろうと思います。
それで、こうして見ますと、キリスト教の真理なるものは、世人のいわゆる真理とはだいぶ違っていて、決してこまごまとした学問上の真理ではなく、事実上、実際上の真理であることが分かります。
すなわちこれは、
真理と言うよりは、むしろ
福音と言うべきであって、真理には相違ありませんが、我々の知力を満足するに先だって、我々の心、すなわち我々の全身に幸福を来たらす音信(おとずれ)です。
ゆえにこれを信じるというのは、これを説明すると言うことではなくて、ちょうど飢餓に迫る者が、食物にありついた時のように、懐疑に懐疑を重ねて、人生の巷間を彷徨っていた者が、自分を救う唯一の人生観として抱懐するに至るものです。
そうしてこのような偉大な恩恵に与り得ることは、これまた我々が自ら誇るべきことではなくて、この恩恵は神が我々小さな者を憐れまれるあまり、我々の愚昧をも咎めずに、我々に下された黙示によるものですから、我々は感謝して、これを受けると同時に、またできるだけの微力を尽くして、これを他に伝える義務があることを、悟る次第です。
(以下次回に続く)