私が学んだ政治書
明治33年12月13日〜34年1月13日『万朝報』
私は政治家ではない。また政治家になろうと思う者でもない。今日我が国において称えられる政治なるものは、私が全く蔑視するものであり、私はこれに触れることに、らい病患者に触れるかのような感を懐く者である。
しかし、私も人である。アリストテレスがかつて唱えた「政治的動物」の一人である。ゆえに政治そのものは、私は嫌悪しない。世には高尚な政治と下劣な政治がある。
ミルトンの政治論とマキャベリの政治策がある。二者は共に「政治」という名を付しているが、その間には天地の差がある。
前者は、人たる者は誰もが攻究すべき者であり、後者は私達が慎んで手を触れないように努めるべきものである。不肖私のような者でも、前者に対しては今日まで、多少の注意を払った。
政治と国家との関係は、倫理と個人との関係のようなものである。
政治学は、一名これを国家的倫理学と言うことができる。これに純理と応用とがあるのは、個人的倫理にこの両面があるようなものである。
そして個人的医術は、これを社会全体に応用して、社会的衛生となるように、個人的倫理を国家に応用して、政治学があるのである。
政治学を、ことさらに高尚で紛雑な学と考えるのは誤っている。政治は、単純で明白な人道を、国家全体に適用する学と術に他ならない。これがミルトンの政治であった。クロムウェルやリンカーンの政治であった。
彼等は別に政治策なるものを知らなかった。彼等は明白な常識を、彼等が施した政治の基準としただけである。公明正大の士であれば、彼等の政治を解するのは非常に容易である。
政治はそのようなものであるから、全ての偉大な人は、偉大な政治家だったのである。孔子、釈迦、キリストはもちろん、モハメットのような宗教家も、ダンテのような詩人も、ミケランジェロのような美術家も、ワシントンのような将軍も、みな偉大な政治家だった。
彼等は、特別に政治の学を研究した者ではない。彼等は人生そのものを解した。ゆえに彼等は政治家だったのである。
政治を一種の投機術のように見なす者、外交の技能とか称して、これを演芸の一種と見なす者などは、未だ大政治家の心事を解しない者である。
政治とは何か。理想を国民と国土との上に描くものではないか。これを言語に現して詩歌と文章とがある。これを大理石に現して、彫刻がある。これをキャンバスに現して、絵画がある。これを楽器に現して、音楽がある。そして、これを国家の上に現して、政治があるのである。
人類の標本的政治家とも称すべきギリシャのアテネのペリクレスは、詩人でかつ音楽家であった。音楽と政治、音声上の調和と人事上の調和、心底に調和を大量に蓄えない者は、身を政治に委ねてはならない。
ルターは、神学は音楽の一種であると言った。そしてペリクレスなどは、政治を音楽の一種と見なしたのである。これに接すると、ヘンデルやメンデルスゾーンの大音曲を聞くような感がする。
その規模は偉大であり、その希望は広遠である。私達はこれを評するのに、ただスプレンディッド(立派)の一語があるだけである。そして全て美を愛する者、全て真を求める者は、この種の政治を探究しないで居られようか。
(以上、12月13日)
その一 聖 書
私が学んだ政治書中最も貴重なものは、キリスト教の聖書であると思う。日本には、聖書を単に宗教的経文と見なす者が多い。しかし、それは聖書の内容がどのようなものかを知らない者の言葉である。
聖書は、その過半が、最も高尚な政治書である。その旧約書なるものは、ユダヤ国民の発育史であり、その記事が目的としたところは、地上に理想的国家を建設することにあったのである。
聖書が欧米諸国の政治に深遠な関係をもってきたことは、欧米の歴史に通じている者に、普(あまね)く知られている。
シャーレマンのフランク王国なるものは、主にキリスト教を国家的に適用したものであった。彼は、彼の政治的教科書として、主に聖アウグスティヌスが書いた「神国論」を用いたという。
ローマ帝国壊滅以後、シャーレマンのフランク王国ほど規模の遠大なものは無かった。彼が北欧の蛮民の上にキリスト教的愛心に則った政治を敷こうと試みた勇気と大胆とは、全ての歴史家の敬虔を惹(ひ)くものであった。
アンセルム、アベラール、トーマス・アクイナス等中古時代の高僧は、みな著名な宗教家であったのと同時に、また深く意を政治に用いた人であった。
後日サボナローラが、イタリアのフローレンスに適用しようと試みた新憲法は、アクイナスの政治説に依ったものであるという。
ダンテの「王国論」は、その時代の政治に、キリスト教の教義を応用しようとしたものであって、その詩人的インポッシビリティーとも称すべきものの中に、無量の知恵と先見とがあることは、ダンテ学者がみなよく知っているところである。
キリスト教の聖書に暗くては、欧州の政治と法律とを究めるのは難しい。バッサ家のスウェーデン国における、オレンジ家のオランダ国における、アルバッド家のハンガリー国におけるそれら
(政治と法律)の多くは、聖書のこれら諸国における関係である。
米国の有名な法律家ルーファス・ショート氏は、彼の事務所にギリシャ文聖書二冊の他は、一書の法律書も留めなかったと言う。
彼の友人はある日彼を訪れて、彼の机上に聖書の他何の書籍も備えられていないのを見て驚き、問うて言った。「法律家の机上にギリシャ文の聖書二冊とは!そして法律書が一冊もないとは!」と。
するとショート氏は声を正して答えて言った。「我が友よ、君は知らないのか。英米両国の政治と法律とは、みなこの書に因るものである事を」と。そして私は知っている。ショート氏は、決して坊主臭い宗教家ではなかったことを。
私が聖書を最良の政治書であると見なすのも、決して根拠のないものではない。
(以上、12月21日)
聖書はもちろん、今日我が国において行われている政治なるものについて教えない。
どのようにして投票と政党員とを買収するのか、どのようにして上(かみ)政権を擁し、下(しも)民衆の心を収攬するのか、どのようにして自身を最も安楽な地位に置いて、天下を掌中に弄(もてあそ)ぶのか、これは聖書が教えないことであるだけでなく、
聖書は、そのようなことを偽計詐術だとし、これを用いる者を、豺狼(さいろう)、蛇蝎(だかつ)、狐狸(こり)と呼ぶ。私達は聖書を学んで、今の世界に雄飛できないことはもちろんである。聖書は根本的に今日の日本において行われる政治なるものを拒絶する。
しかし、もし政治の目的が、故グラッドストーンが言ったように、「善を為すことが容易で、悪を為すことが困難な社会を作る」ことにあるなら、聖書は最良の政治書であることを失わない。誰か日本の今日の社会の状態を目撃して、次のイザヤの言葉を思い出さないであろうか。
頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は
ぬぐわれず、包まれず
油で和らげてもらえない。
(イザヤ書1章6節)
また今日、私の目前に供せられつつある幾多の収賄事件を見て、同じイザヤの次の言葉を思い起こさないであろうか。
支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり
皆、賄賂を喜び、贈り物を
強要する。孤児の権利は守られず
やもめの訴えは取り上げられない。
(イザヤ書1章23節)
聖書は無遠慮にも、幾回か私達に告げて言う。「正義を追求しない国民は、その兵はいかに強くても、その富はいかに多くても必ず滅亡に帰するであろう」と。
そして歴史的事実は、聖書のこの言葉が的中していることを証明し、後世に国家存亡の理を、火を見るよりも明らかに示している。
それでは、どうしたら社会のこの傷を癒せるかと問えば、聖書の社会治療策なるものは、甚だ簡明で、かつよく常識に適うものである。
公道を水の如くに、正義を尽きざる河の如くに流れしめよ。
(正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。 (アモス書5章24節))
必ずしも新憲法の発布とは言わない。また新政党の樹立を語らない。これらは時には利があるが、また時には害があるものである。法律は完成を告げても、国家は滅亡に帰したローマのような例もある。
国民を悲惨の淵に沈めた政党は、数えられないほど多い。ただ利があって害のないものは、公道と正義だけである。国家を維持する者は、その政治家ではなくて、高士(こうし
:人格の高潔な人)と義人である。
「公道を水の如くに、正義を尽きざる河の如くに流れしめよ」と。即ち社会を救うのに、滋養療法によって行えということである。
腐食した部分を取り去るよりは、生気を注入せよということである。罪悪を詰責するよりは、公道を奨励せよということである。
今や日本人は、正義を唱える者を嘲っているようであるが、しかしながら、三千年前の昔から、今日に至るまで、正義を除いては、国を救う力は他に存しないのである。
(以上、12月23日)
聖書の理想的国家は、武を蔑視する国家である。聖書記者は、絶対的な平和論者である。
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。
(詩篇20章7(8)節)
公道が全地を覆うようになり、人類がその進歩の極に達する時は、神が国と国との間を裁き、世界の民を治め、「
彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 (イザヤ書§2:4)」と言った。
聖書のこの理想を基に評すれば、今の英国、米国を始めとして、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア等は、いずれもキリスト教国であることを自ら誇る価値のないものであることを知ることができる。
聖書の理想的国家は、また貧者を顧み、弱者を助ける国家である。神は弱い者の砦(とりで)、乏しい者の艱難の時の避け所として崇められ、彼等に冷水一杯を給することは、神が甚だ喜ばれるところであるとして教えられた。
聖書記者が忌み嫌った者に、無情な政治家ほどの者はなかった。預言者アモスが当時の為政家を罵って、次のように言った。
お前たちは象牙の寝台に横たわり
長いすに寝そべり
羊の群れから小羊を取り
牛舎から子牛を取って宴を開き
竪琴の音に合わせて歌に興じ
ダビデのように楽器を考え出す。
大杯でぶどう酒を飲み
最高の香油を身に注ぐ。
しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。
(アモス書§6:4〜6)
この言葉を二十世紀に入ろうとする今日東洋日本の東京に群集する幾多の政治家に応用して、一点一画の誤謬もないことを見ることができる。
聖書はまた、亡国の徴候を指示して余すところがない。その最も明白なものとして、預言者エレミヤは、次のように言った。
汝等各(おのおの)其隣人に心せよ。何(いづれ)の兄弟(同胞)をも信ずる勿れ。
兄弟は皆な詐欺(いつはり)をなし、隣人は皆な讒(そし)りまはればなり。
彼等は皆な其隣人を欺き且つ真実を云はず。汝の住居は詭譎(いつはり)の
中にあり。
(この部分は、新共同訳聖書では、エレミヤ書の§12:6、「あなたの兄弟や父の家の人々/彼らでさえあなたを欺き/彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな/彼らが好意を示して話しかけても。」に対応していると思いますが、差があるように思います。ただ、新共同訳の「あなたの兄弟」が「父の家の人々」の一部でないのであれば、同胞を指すと思います。)
これを我国今日の社会における日常の出来事に対照して見て、私達はその壊滅する時期が遠くないことを察することができるであろう。
もし偉大な、しかも慈悲深い、建国者を求めたいと思うなら、それを神の人であるモーセにおいて見ることができるであろう。もし広遠雄大な政治的意見を知りたいと思うなら、それをイザヤの預言において見ることができるであろう。
最も高尚で、最も深刻な憂国家は、ヒルキヤの子であるエレミヤである。主張によって朝廷に仕えたいと欲する者は、ダニエルの伝を読むべきであろう。そしてもし理想的国家とは何であるかを知りたいと思うなら、使徒ヨハネの筆に成ったと伝えられる黙示録を学ぶべきである。
私は、日本人が、聖書というこの大政治書が不完全ながらも日本語に翻訳されているにも関わらず、宗教の書であるとしてこれを退け、わずかに新聞紙上に吐露されている蜉蝣(ふゆう)的政治論で彼等の思想を養いつつあるのを見て、常に驚き、かつ怪しむ者である。
(以上、12月27日)
(以下次回に続く)